読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホサナ

町田康著 「ホサナ」

町田康のものを初めて読んだのは、「きれぎれ」だったと思うのですが、

取っ付きにくく感じました。

少女小説モードの私の頭には付いていけないような、

絵画で言えば、デホルメが強烈で、すんなり楽しむというには

程遠い物語でした。

でも、冒頭の、人がどんどん飛び降りていくシーンが印象的で、

一見わかり難いように見えながら、突然、わかったように思い込むと、

たった一行で、一ページ分の説明を受け取ったような気持ちになりました。

そのわかったのかわからないのか、本当のところはよくわからない感じで

引き込まれてしまうというのが不思議でした。

脳の中の使われていない筋肉をストレッチされているような

感覚にもなります。

「ホサナ」、少女小説モードの頭の私が何故?と思うのですが、

すごく面白いです。

何で面白いのだろう…と思いながら読んでいます(^^;

印象的な言葉は、「ないことにして」です。

こちらの興味があの原発事故にあるせいか、ひょっとこの話も

複数の小さな太陽を作った話も、あの事故に擬えて読みました。

「地球環境を考えるなら人類が滅亡した方が良い」(正確にそのままでは

ありません)というような言葉や、

「しかし、そのおかしいことにも、または、おかしいことにこそ意味があるのでは

ないか、と思ったのだ。…」

「そのとき、どう考えてもおかしい、と考えて、その、おかしさ、を正したら

どうなるのだろう。高いレベルで実現していた正しさは消え去り、さらに訳の分から

ないおかしさが齎され、さらにそれを正そうとしてもっとおかしくなる、おかしさ

スパイラル下降、のような悲惨なことになる。そしてその結果、必要になってくる

代銀は生きているものの血と肉で支払われる。

だから私たちはおかしさには意味があると考えこれを受け入れ無闇に正そうと

しない方がよいのではないか。」(←これは載ってる文章のまま)

この考えはとてもよくわかるような気がしました。

例えば人間はもっと良い世界をと思って、医学を発展させた。

でも、そのせいで誰も彼もが長寿になり人口爆発の世界になった。

もし人間が猿に近い存在で今も猿同様の暮らしをしていたら、

大自然は破壊されず、持続可能な世界が続いていたのかもしれない。

せめて、日本があの西洋の真似をせずに、今も江戸時代のままの社会だったら、

人々の暮らしは悲惨ではあったとしても、少なくとも、この国土が

人の住めない土地になるようなことはなかったのかもしれない。

などと思います。

もし、あのヒトラーを誰も止めなかったら…

今頃ユダヤ人は絶え、イスラエルなどという国は存在せず、今の中東問題も

なかったかもしれない。

もし、日本が今も売春やお妾さん公認の国だったら、少子化問題はなかったのかも

しれない。

例え、それでほとんどの国民が奴隷のような状態で生きることになったとしても、

日本がそこそこ存続するにはなんの問題もない。

大自然では、カラスは小鳥の巣を襲いヒナを食べる。猛禽類は小鳥を襲い

エサとする。どんなにそれが可愛そうでも、食べないわけには行かないのが、

この世の中の仕組み。

そう考えると、野良犬や野良猫を救うなどという行為は、自然の理から外れた

行為になる。

ただ、自然の流れに任せて、全てをただ受け入れる。何かをする、何かが出来ると

思うこと自体が、自然の理に外れたことで、うまく諦めることだけが、

私たちがすべきこと。

私は、この考え方は、私自身の細胞レベルにまで、深く深く染み付いているような

気がします。

そして、だからこそ、私は人間など信じることも出来ないし、自分自身も

信じることなどできず、この世界が生きるに値するほど、素晴らしいものだとも

思えない、という感覚が骨の髄まで染み込んでいるような気がするのです。


…というようなことを考えさせてくれる文章が随所に出てきて、

ホサナ、面白いです。