読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

熊太郎と熊次郎

告白の主人公熊太郎。そしてその主人公を窮地に陥れる極悪非道な熊次郎。

なぜ名前が似てるのか、気になっていました。

最初に読んだ時にも思ったことですが、特に考えもしませんでした。

多分、「面白み」の為じゃないかと。その程度に思ってました。

でも、今日歩きながらふと考えたのは、あの「人生の四季」で

ポール・トゥルニエサルトルシモーヌ・ヴェイユを引き合いに出して

言っていた言葉、「この罪意識は、あらゆる悪、あらゆる不正、そしてこの世の

あらゆる苦悩を自分とわかつことのできないものと感じ、これらの悪の存在に

共同責任を感じる所に成立します。これが成熟した大人の罪意識であり、

これは責任感の目覚めと密接に関連しています。」を思い出しました。

なぜ自分は自分であって彼ではないのか。

これは、誰にもわからないことです。

なぜ自分がこんな人間になってしまったのか、ということも、

色々思い当たるフシはあるとしても、結局わからない。

むしろそんなことを考えるのは意味がないと言えるほどに、考えても

しょうがないことだと思います。

自分はなぜこの自分なのか…。ほとんど偶然にというか、

奇跡的にというか、ただたまたま自分というキャラクターを

背負わされて生きている、という感じがするのです。

もともと持ってるDNAのヒトという動物の気質の上に

様々な要因の環境の影響が絡み合って今の人格が出来上がっています。

そう思うと、熊太郎も熊次郎も同じ人類という意味ではほとんど同じ。

たまたま違う気質を持って生きてる人間という程度の差ではないかと思うのです。

だったら自分にはなんの責任もない、と考える人もいると思います。

でも、だから自分にも責任がある、と考えるのがサルトルシモーヌ・ヴェイユ

ではないのか、と思いました。それが、成熟した大人の罪悪感だと。

サルトルヴェイユも読んでないので、知らないのですが、

ポール・トゥルニエが言ってるのは、そういうことでは

ないのかと思ったのです。

それで、ふと思ったのは、この町田康という人は、そんなつもりで

この名前をつけたのかなぁということです。

全然見当違いかもしれないけれど、そんな風にも受け取れる得体の知れなさが

あります。

メチャメチャ軽い文章で、時々メチャメチャ深いことを考えさせてくれる人

だなぁと思いました。