読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本はなぜ敗れるのか _敗因21か条

「多くの国の言葉で、「見る」は同時に「知る」「理解する」の意味である。通念・通説・他人の判断の受け売りは、見る事でも知ることでもない。従ってそういう文章をいくら読んでも、人は、何かを知ったという錯覚を獲得するだけで、実際には何も知ることはできない。それでいて、何もかも知ったと思い込む。

そしてこうなると「知る」とはどういうことなのか、それさえ知ることができなくなってしまうのである。


そういう状態がきわめて日常化した今日、小松氏の「敗因に十一カ条」の第一条、その冒頭の一句「精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事」は、人によっては、「浅薄な見方」ととるかもしれないが、私には逆に印象的であり、一種の感銘さえうけた。

氏ははっきりと「いなかった」と断定されている。そしてこれが、小松氏という目撃者には、「最も印象が強烈であった直接的」な敗因であったろう。」



「戦前の日本に、絶対的平和主義者や合理的実証主義者はいなかった、と言えば、それへの反論は簡単であり、反証はすぐにあげられる。

ではそういう人がいて、なぜあのような無謀な戦争をはじめたのかと問われれば、その人たちは、日本の方向を定める一勢力としては無きに等しい例外的存在であり、なにもなし得なかったという点では無きに等しかった、と答える以外にない。」


「ところが奇妙なことに、精兵主義があれば精兵がいることになってしまい、強烈な軍国主義があれば、強大な軍事力があることになってしまう。

これはまことに奇妙だが、形を変えれば現在にも存在する興味深い現象である。」



〇ここで思い出したのが、あの「サピエンス全史」の中の資本主義についての話です。もともと、西洋では、一神教キリスト教を信じていた。それが、例えマインドコントロールによるものであっても、あのキリスト教には、人間一般に通じる「普遍的な価値観」があったことで、広く多くの人が一緒に持つ「幻想」になり得たのだと思います。

ヤスパースも言っていたように、多分それ故に西洋は一つになれた。

だからこそ、次のステップ、資本主義に必要な「信頼」を現実のものにすることができた。

本来、「口先だけのきれいごとをいう人間」が、その言葉をもとに、互いに信じあうなどということは、あり得るはずはありません。ただ、損得や利害だけがその行動を促す、というのが、人間の本性です。

という意識が私たちの中にあったということは、日本の古典の文章(宇治拾遣物語)を読むとよくわかります。

でも、マインドコントロールであれ、なんであれ、キリスト教を信じた西洋人は、人を「信頼」することができた。

これは、本当に大きな事だと私は思います。
もちろん、例外的な人はたくさんいたでしょう。でも、大きな動きとして、「信頼」を根拠に言葉を積み上げ(逆かもしれません、言葉を根拠に「信頼」を積み上げたのかもしれません)、その言葉を根拠に、組織や方法論を積み上げ、困難を克服する力を結集することが出来るというのは、「希望」を実体のあるものに出来るということだと思います。


私たちも同じ人間なので、「精兵主義」があれば「精兵」がいると「信じてしまう」。「強烈な軍国主義」「があれば、「強大な軍隊」があると「信じる」。

人間は、「信じてしまう」ものなんだと思います。

その「信じてしまう」ところを一番肝心なところに使って、「人間同士が信じ合う」という「基礎」を作った西洋人は、賢いなぁと、私は思います。


私たちは、逆に「きれい事ばかりいうのが、人間。信じるな。」と言われ、それでいて、権力者や為政者は、うまく下々のものをコントロールするためには、上手に騙す必要があると、「精兵主義」や「強烈な軍国主義」を信じさせる。

そんな扱いを受けた「下々のもの」は、ますます権力者や為政者を信じられなくなるから、どれほど議論が必要でも、議論など騙し合いのための儀式にしかならない。

西洋が良いスパイラルに入って行ったとしたら、日本は、悪いスパイラルに入っているとしか思えません。

一番根っこの、人と人が信頼し合って、力を結集する、という習慣が私たちにはない、と私には見えます。


「そして現在、しばしばこれと似た発想が表れるのが、春闘などに動員された労働者の「数」である。この「実数」は厳密に計算すればだれが計算したとて同じ「数」であって、その人の奉ずる主義主張によって、現実に実在する数が増減することはありえない。(略)


主催者の春闘共闘委員会の発表した「数」は二十万人、警視庁調べでは三万一千人である。」

〇結句、ここにあるのも、「騙し合い」です。それを見せられる一般庶民は、ますます「どちらも信じられない」となっていきます。
私は、ずっとこの立場でした。