読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

苦海浄土

「社会的な自他の存在の”脱落”、自分の倫理の”消失”、加速度的年月の”荒廃”の中に晒される。それらを、つないでみねばならない_。(略)目くらで、唖で、つんぼの子が創った目の穴と、鼻の穴と、口の穴のあいている人形のような、人間群のさまざまが_。それらの土偶の鋳型を、わたくしはだまってつくればよい。」
 
 
「_市民会議は若いものたちばかりです。世間の苦労も、まして、水俣病の苦労は、なにひとつ知りません、なにをやりだしますことか、いろいろご相談せねばなりません。どうかくれぐれもご指導をいただき、お見守り下さい。」
 
 
水俣病公式発生以来十四年、ながく明けない初発の時期がここにまだもちこまれていた。
 
それはこの地域社会で水俣病が完璧なタブーに育てあげられた年月である。
どのようにタブーであったのか。
 
「(略)お前あそこの水俣か、けったいな所からきたもんやの。そういうて水俣いえばクズみたいな、何か特別きたない者らの寄ってる所みたいにおもわれてるんや。よそに出たら水俣は有名やで。(略)
 
ジツはうちの父ちゃん水俣病とは、死んでもいうまいおもうとる。いやもうそこをでて、うちらの故郷水俣やいうたら、行くとこのうなるワァ。」」
 
 
「「ほかの身体障害で入った者が、見舞人に水俣病と間違えられるときはおかしかったない。名誉傷つけられるちゅうて、水俣病の部屋とはなるべく離れておらんば迷惑じゃと、
 
見舞人の来れば、こっちよこっちちゅうて、そっちの方は水俣病の衆じゃと、自分たちはさも上等の病気で、水俣病は下段の病気のごといいよらす」
 
「そんならわたしどんが名誉はどげんなさるや」
 
「名誉のなんのあるもんけ、奇病になったもんに」」
 
 
 
「市民会議発足前後から彼女は錯乱状態におちいっていた。あるともおもえぬうつくしい夫婦にみえていたが、茂平やんが彼女を棄て、自分の荷物をも棄て、すたすたと夜になってから、リハビリ病院を出て行ってしまったのである。」
 
 
 
「先のなか命ちゅうことは知れとります。それまでしかし、わしのほうがもう保てん。互いに添うには二年足らず。あとは男の方が尽くすばっかり。
 
ゆき女はわしに財布も渡さんちゅうたばい。それではわしの男が立たんとじゃあるまいか。わしの方はどげんなると思うかな。子供たちもこの先、あのような病人についとれば、お父っつぁんの先がなか、戻ってこいとすすむるし」
 
かねて口数の少ない彼があんまりきっぱりいってのけたので、山本氏は「ダメじゃ」と思った。(略)
 
 
「はい、つとめるだけはつとめました。もうつとめも終わったと。わしの方が長うつとめたで。二度とゆきがところに戻る気はありまっせん。水俣病ばわしにかぶせるごとなってしもてから。
 
あんたんとこに嫁ごになってきさえせんば、こういう病気にゃならじゃったちゅう。わしゃ、水俣病をうちかぶることはできまっせん。会社もかぶらんものを。よろしゅうたのみます」そう言ったのである。」
 
 
〇親しくなればなるほど、わがままが出て、思ったことを何でも言うようになって、それが親しさの証明でもあるけれど、でも、思ったことを何でも言うようになると、相手を傷つけることも多くなり、修復は難しくなる。
 
このゆき女のエピソードはショックでした。
でも、普通だれでも、こうなってしまう、と思います。
 
むしろ、茂平は今まで本当によくやったと思います。
 
「自分のゆき女、自分のゆり、自分の杢太郎、自分のじいさまをかたわらにおき、ひとりの<黒子>になって、市民会議の発足にわたくしはたずさわる。(略)
 
中津美芳氏の眼窩はことにこの夜落ちくぼみ、そのような挨拶を絶句しがちにのべたが、水俣という地域社会において水俣病がタブーであるかぎり、その表現は一種の仮託法をとるのである。
 
氏はなにひとつ、その暗い眼窩の奥や咽喉もとのおし溢れているであろう積年の恨みも、想いも、のべることはできないのだ。
 
そのような、患者互助会員たちの、語り出されない想いをほんのかすかにでも心に宿しえたとき市民会議は何ができるのであろうか。」
 
 
水俣病患者およびその家族は、この十四年間、まったく孤立放置されている。熊本大学医学部の研究によって、原因は新日本窒素肥料工場からの排水に含まれるメチル水銀化合物であり、その本体はアルキール水銀基であることが、疫学、臨床、病理、動物実験水俣湾周辺の動物、魚介類、海底泥土中の水銀量証明など、あますところなく学問的に証明されている。
 
その責任は、学問的証明があるにもかかわらず、これを政治的に認めようとせぬ当該企業、地方自治体、日本国政府にあることはいうまでもない。
 
ここにまことに天地に恥ずべき一枚の古典的契約書がある。
新日本窒素水俣工場と水俣病患者互助会とが昭和三十四年十二月末に取りかわした”見舞金”契約書である。
 
要約すれば、水俣病患者の
 
  子供のいのち年間   三万円
  大人のいのち年間   十万円
  死者のいのち    三十万円
  葬祭料        二万円    」
 
 
「このような推移の中でチッソ工場は縮小、合理化を進め、わが水俣市は工場誘致をうたいあげ、水俣病事件は市民のあいだにいよいよタブーとなりつつある。
 
水俣病をいえば工場がつぶれ、工場がつぶれれば、水俣市は消失するというのだ。市民というより明治末期水俣村の村民意識、新興の工場をわがふところの中で、はぐくみ育てて来たという、草深い共同体のまぼろし。」
 
 
「日曜日の市中は静まり返り、約百人そこそこの人数で、先頭の、ぎくしゃくとした患者たちの足並みに合わせて、歩いてゆく異形の集団に息を吞んでいた。十四年間のタブーの、それはゆっくりとした顕在化の一瞬であった。」
 
 
「請願書
現在の水俣病の対策は当初より不充分の上に年月の経過と共に各方面の関心がうすらぎ先細りの傾向にありますので、当面の対策として次の事項を請願します。
 
一、水俣業患者がチッソ株式会社より受けている見舞金は生活保護の収入認定対象から除外するよう関係方面に働きかけてください。
 
二、水俣病患者家族互助会からの就職、転業のあっせん依頼は積極的にあっせんを行ってください。
 
三、心身障害児を対象とした特殊学級を湯之児病院に新設してください。」
 
 
 
「五月、厚生省「イタイイタイ病の原因は三井金属神岡鉱業所からのカドミウム」と発表、そのまま国の結論となる。漸次、全マスコミ、潜在している諸公害の発生の予兆に対し感度高まり、両水俣病政府見解を追い上げる動向となる。国民の、生存の危機感の反応……。
 
しかしおそろしくマスコミは忙しく忘れっぽい。」
 
 
「はじめて水俣市が主催した慰霊祭に、会場設営と受付をやった市役所吏員を別として、一般市民が、わたくしをのぞいてただひとりも参加しなかったのである。」
 
 
「仕事も手につかない心で市民たちは角々や辻々や、テレビの前で議論し合っている。
 
水俣病患者の百十一名と水俣市民四万五千とどちらが大事か、という言いまわしが野火のように拡がり、今や大合唱となりつつあった。(略)
 
水俣病に関する限り、どのような高度な論理も識者の意見も、この地域社会にはいり込む余地はない。
 
〇 ため息が出てしまいます…
 
 
「三十四年十一月工場排水停止は、操業停止だとした従業員大会の夜を境とし、一夜にして反漁民的となった市民感情のうごきを、覚えていたのだ。
 
 
おのれの大量殺人には口を拭い、漁民を暴徒に仕立て上げ、産業誘致に血道をあげては、逃げられてばかりいる”農業後進県保守熊本”の世論を、そのようにして苦もなくくぐりぬけ、「見舞金契約書」に調印させたあの時期を、してやったりとこたえられない想いをしたであろうあの時期を、覚えていたのちがいないのだ。
 
もはや十分であった。より密度の濃いタブーが生まれつつあった。タブーよ、もっとも熱度低く冷ややかに凍れ、とわたくしはおもっていた。
タブーも高度に凝固、結晶すれば変質するのである。」
 
 
「八月三十一日、チッソ第一組合(合化労連新日窒労組)は定期大会をひらき「水俣病に対し私たちは何を闘ってきたか?私たちは何も闘い得なかった。人間として労働者として恥ずかしい。何もしてこなかったことを恥じとし、水俣病を闘う!」と宣言する。
 
それは予想されていた可変部分だった。チッソを守れ!会社を守れ!というシュプレヒコールは、だがさらにつづく。」