読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

シーラという子 _虐待されたある少女の物語_

「私のクラスのある程度理解力のある子供のほとんどは、なぜ自分がこのクラスにいるのか、多少ともその理由に気づいていた。私たちはその理由についてよく話した。」


「ほとんどの子供たちがこうしたことをどうしても話さなければならないと思っているようだった。


この種の会話は感情を抑えて、気軽に交わされた。長年の経験から、私は自殺を図ったこととか猫を生きたまま焼いたというような話を、何かのリストを作ったとか野球の得点を聞くとかいったことと同じような気軽さで話し合えるようになっていた。

そのような行いがまちがっているとか、。子供たちが怖い思いをしたとか、他の人たちに嫌な思いをさせたとかいうようなことを子供たちが知る必要はなかった。

そんなことはもうわかっていたからだ。そうでなければそもそも彼らは私の教室にはいないはずだ。

そうではなくて、それらの行動の幅や深さをさぐり、そういうことをしたときにどんな気持ちがしたか、どういう気持ちがすると思っていたのか、その他さして意味もないと思われがちな付随する細かな事等を探り出す必要があった。

たいていの場合、私は聞いているだけで、話がはっきりしないときだけ二、三質問する程度にとどめていた。(略)


お互いの顔を見ないで話が出来、また今話しているだということをあまり意識させないために、ぬり絵をしたり、紙粘土で何か作るなどの、集中しなくてもできる作業で忙しいように工夫をした。」


〇崎尾英子さんの言葉で、もう一つ強烈に印象に残っている言葉があります。

「もうその言葉を言うのはやめましょう。その言葉は、きちんと子供の中に入っています。子供はもう何度も聞いて、分かっています。

その言葉で、反抗が始まるとき、さらにそのことを言うのは、火に燃える材料を投げ込み続けるようなものです。」(言葉は正確ではありませんが、そのような意味のこと)

ここで、トリイさんが、「そのことはもうわかっている」と言っているのは、そのことだ、と思いました。

でも、親はどうしようもなく、同じことを何度も何度も言いたくなります。

早く寝なさい。早く起きなさい。

中二にもなって、そんなことはもうわかっている。
それでも、それを言うのが、親だと思っている。

この精神構造は、私自身も、山本氏が「日本はなぜ敗れるのか」の中で言っている、
あの「軍人」と同じです。

その軍人たちは、威張ることと居眠りをすることと精神訓話で聴者のねむ気を誘発し、それらの結果、実務を妨害する以外に脳のない存在だった」

耳にタコが出来ているようなことをクドクドと言ってしまう。
この辺にも、自分との戦いがありました。トリイさんは、それはしないといっていて、プロだなぁと思いました。