読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

シーラという子 _虐待されたある少女の物語_

〇 ヤフーブログが閉鎖されるので、こちらに移行するつもりでいます。

でも、ちゃんとできるのだろうか…と不安です。

それで、まだあと少し時間があるので、出来る分だけ、コピペで移したいと思います。

 

 

最近、「虐待で亡くなった少女」の話を立て続けに三人も聞きました。結愛ちゃん、心愛さん、詩梨ちゃん。親が問題なのはもちろんなのですが、何故か、その周りの大人たちにもかなり問題があるようで、人ごととは思えません。

安倍政権の酷さ、民主主義の破壊、「公序良俗」の規準の破壊に、絶望的な気持ちになりました。それにも関わらず、日々、平穏に時間が過ぎている今の状況が不気味ですらあります。

 

でも、それと同じくらい、いやそれ以上に、あの元事務次官熊沢英明さんの息子殺しや虐待された少女の死は絶望的な話だと思います。

社会の根幹が崩れ始めているように感じます。

やりきれない気持ちです。

 

以下、2018年3月に書いたものです。

 

=======================================

 

 

 

〇 トリイ・ヘイデン著 「シーラという子 _虐待されたある少女の物語_」を読んでいます。

日本的なものについての本は、これからも読み続けると思いますが、
どうしても気持ちが暗くなります。
読めば読むほど、問題が深くて、簡単には良い方向に行きそうもない気持ちに
なってしまうからです。


でも、これからも読み続けます。考え続けます。祈り続けます。


気分を変えて、これもかなり前に読んだ、「シーラという子」を読み始めました。翻訳された本が読みやすいのは、訳者さんが、読みやすい日本語に訳してくれているからだと思います。

むずかしい言葉が出てくる小説は、私には読めないので、読みやすくて
本当に助かります。

この本は、衝撃を受けました。あの「一緒にいてもひとり」を読んだ時も感じたのですが、「こんな人がいるんだ~」という驚きです。
このトリイ・ヘイデンさんは、実在の人物です。これは、現実に起こったことです。
そこが、すごいと思います。

図書館に返し手元になくなってからも、何度もこの本のことを考えました。
そして、何年も経った時、古本屋にメチャメチャ安く置かれていたので、
つい買ってしまいました。

とはいえ、中を開いてはいませんでした。
内容をほとんど忘れているので、またしっかり読み直してみたいと思います。

自分の感想は〇で、本からの抜き書きは「 」で、書きます。


「私は気づくべきだった。

新聞の六面の漫画の下にほんの数節書かれただけの小さな記事は、近所の子供を誘拐した六歳の女の子の話を伝えていた。十一月の寒い夕方に、女の子は三歳の男の子を連れだし、その子を近所の植林地の木にしばりつけて火をつけたというのだ。


男の子は現在地元の病院に入院中で重体だという。
女の子は身柄を拘束された。」


「自分の受け持ちのクラスに、こんな経歴のある六歳の子供を入れたいと思うような教師などいないということに、私は気づくべきだったのだ。」

 

「その前の春、私は補助教員として教え、一日の一定時間だけ普通学級に出席している情緒障害の子や学習障害の子の手助けをしていた。」

 

「そんなわけで熟練を必要としない仕事はふつう社会福祉事業にリストアップされている失業者に当てられることになっていた。

私としては私の助手という仕事が熟練を必要としないとは考えていなかったが、福祉課のほうではそう考えているようで、学校の初日、私はひょろっと背の高い、英語よりはスペイン語のほうをよく話すメキシコ系アメリカ人と対面することになった。

彼、アントンは二十九歳で、高校も卒業していなかった。いや、子ども相手の仕事をしたことはないな、と彼は認めた。

いや、特別そういう仕事をしたいと思ったこともなかったよ。だけど、与えられた仕事を受けないと、給付金をもらえなくなるんだよ、と彼は説明した。」

 

 

「七歳のセーラのことは三年前から知っていた。彼女が保育園にいたときに一緒に過ごしたことがあったのだ。身体的及び性的な虐待の犠牲者であるセーラは、怒りっぽい反抗的な子供だった。

別の学校で特殊学級の一年生だった去年一年間口をきかなかった。自分の母親と姉以外の人間に話すことを拒絶していたのだ。

私たちはお互いの顔を見て微笑み合った。見慣れた顔を見てうれしかったのだ。


立派な服装をした中年の女性が、美しいお人形のような子供を連れて入ってきた。小さなかわいい女の子は子ども用のファッション雑誌から抜け出てきた様だった。

やわらかいブロンドの髪はていねいにスタイリングしてあるし、糊のきいたドレスにはしみひとつない。彼女の名前はスザンナ・ジョイ。六歳で、学校に来るのは今日が初めてだった。思わず胸が痛んだ。

学校に入る最初の入口で私のクラスに来るように言われるということは、将来に希望の持てる徴候ではなかった。」

 

「そんなわけで当初私たちは十人だった。そこに中学生のウィットニーが加わり、全員で十一人になった。最初にこの雑多な子供たちと、同じくばらばらなスタッフを眺めた時、私は絶望に襲われた。

これでどうしてクラスとしてやっていけるだろうか?どうやってこの子たちに算数をやらせたり、九カ月でしなければならないとされている他の奇跡をおこなったりできるというのだろうか?」


「私は例の新聞記事を十一月下旬に読んだのだが、そのことは忘れてしまっていた。だが、忘れてはいけなかったのだ。いずれそのうちに私たちが十二人になることを、私は予測していなければいけなかったのだ。」

 

「「エド?」私は汗で滑り落ちそうになる受話器をしっかり握っていった。「私はどの子も他のクラスに移したくないの。私たち、いまとてもうまくいっているのよ。
誰か一人を選ぶなんてとてもできないわ。」」


〇上司から、新聞記事にあった女の子を受け入れてほしいと頼まれ、もう十一人もいるので、これ以上は受け持てないと断ると、一人、他のクラスに移しても良いから、
是非ともその子を受け入れてほしいと頼まれ、トリイさんは、こう答えます。

ここが私には、信じられません。
仕事だからしょうがないと、クラスの子供たちを受け持っている時に、
もう一人、と言われたら、私なら迷わず、誰かを他のクラスに任せます。


でも、自分がもしこの中の子供の母親なら、そして、私自身が、この中にいる子どもなら、「仕事だからしょうがない」と関わっている教師に心から気持ちを開けるだろうか、と。

多分、そういう気持ちでできる仕事ではないのだと、このトリイさんはわかっていて、だからこそその一人一人をしっかり心の中で受け止めている…
そうなると、誰もそう簡単に、他に移すこと等考えられない、となるんでしょうね。


これは、あの夜回り先生が言っていた、「組織ではダメ。個人で係わらなきゃ」の
精神にも通じると思います。

「「違う」と私は言いました。私個人が世間に顔をさらし、一対一で向き合おうとするからこそ、子どもたちは信じ、自分の苦しみを打ち明けようとしてくれる。
組織にまかせるわけにはいかない。(夜回り先生のねがいより)」