読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「正義」を考える  生きづらさと向き合う社会学

「2 新しい傷  <リスク社会>
そのリスクについての理論を踏まえ、ある特定のタイプのリスクのことを「新しい傷」とマラブーは言っています。(略)

「新しい傷」になってしまうリスクというのは、「解釈学的内面化(hermeneutic internalization)」ができないタイプのリスクですね。誰かが、リスクと呼べるような、様々な酷い出来事に遭遇し、心身に傷を負うとする。ところが、その出来事に遭った被害者が、その傷を、どうしても内面化できない。

つまり、それを自分で受け入れることができない。自分の運命だったとか、仕方が無いこととして、引き受けることができない。そのようなリスクが、新しい傷です。当事者にとって、いつまでも外在性や疎遠性を保ち続けているリスクが新しい傷です。」


「例えば小さい頃お父さんに虐待されたとか、お母さんとの間に葛藤があったとか、そういうことが原因で、あなたは今こういうことになっているんですよ。_このように解釈される。解釈したからといって何になる?と思うでしょうが、精神分析では、解釈されることによって症状が消えるのですね。


つまり、自分のこういう状況は、小さい頃に家族との葛藤があったがゆえに生じているというように、悲惨な出来事を意味づけ、解釈することによって症状が消えてしまうのです。

解釈するということは、そこに一つの物語を与えるということなんですね。つまり、解釈を通じて、悲惨だった出来事が物語の中に統合されるのです。思い切ってわかりやすく言ってしまえば、かつてのトラウマが、人生という物語の中で、一つの試練として解釈し直されるわけです。

そうすることによって、トラウマに物語の中での意味が与えられる。意味が与えられることによって、どんな悲惨な事でも、耐えたり、受け入れたりすることができるものになる。(略)


ついでに言っておけば、この作業で重要なことは、自分一人でこうではないか、ああではないかと考えても治らないということです。精神分析という関係性の中で解釈してもらわないとだめなんですね。」


〇 ここでも、また思い浮かんだシーンをあの「タイガーと呼ばれた子」から引用します。

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「なんでお母さんはあたしを置いていったと思う?」シーラはきいた。
ランプの光に照らされて、彼女の目に涙が光っているのが見えた。流れ落ちては来なかったが、涙が盛り上がり、彼女が頭を動かすとききらきら光った。(略)


私が何かを言い出す前に、シーラがふたたび口を開いた。「トール?いつかうまく行くと思う?」
「いつかお母さんを見つけることが出来る、という意味?」
シーラは肩をすくめた。
「ううん、必ずしもそういうことじゃなくて。ただいつか大丈夫になる?そう思う?
あたしにもごくふつうの子になれるチャンスがある?」(略)



「そしてその酷いこと二つともが、起こるべくして起こったということ、状況から仕方がなかったんだということ、でもそのどちらともあなたのせいではないことを受け容れられるようになればね。


あの二つのことはたまたまあなたの身の上に起きたけれども、どちらもあなたが原因ではないの。そして最後にはあなたはそれを許し、手放してやらなければならないの」
「あたしにそれが出来ると思う?」
私は頷いた。「ええ。大変勇気のいることだけど、でもあなたは今までだってずっと勇敢な子(タイガー)だったもの」

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〇シーラはもともと緘黙傾向の強い子だったとあの「シーラという子」にはありました。そのシーラがまず、自分の気持ちをトリイに話すようになった。この時点ですごいことだと思うのですが、トリイは、その気持ちを一つ一つ「シーラの物語」中で整理整頓していった。

だから、シーラはその出来事を受け入れられるようになったのか…と思いました。


「<子供は誰かと一緒にいるときに一人になれる」>
芹沢さんの説の中で一番面白いところを紹介しておきましょう。これは後の話の若干の伏線にもなります。芹沢さんの理論的なベースは、ドナルド・ウィニコットという有名な精神分析学者の理論です。

ひきこもりというのは、学校や会社といった公的な世界から一人になる事ですが、もっと重要なのは、ひどいひきこもりの場合_大抵そうですけれども_、本当は家族からもひきこもっているんですね。家の中にいるから家族に会っていますし、食事など生きる上で必要なことに関しては家族に依存しているのだけれども、本当は家族とさえも顔を合わせたくない。


つまり、公的世界からひきこもって、それからプライベートな世界であるところの家族からもひきこもるという具合に、二重にひきこもっている。このように、ひきこもりは、徹底して一人になることを求めているように見えますが、しかし、芹沢さんは、こう言っている。


ひきこもっている人は、本当は、一人になることができないからこそ一人にならざるを得ない、という構造なのだ、と。つまり、一人になることの不可能性こそが一人になってしまう原因だという逆説があると、芹沢さんは指摘しているんです。」

〇 これも、次男が不登校になった時の話です。
その頃、私は自分に全く自信を無くしていました。自分が駄目だから、次男はこんな風になってしまった、と思いました。しかも、だからといって、これからどう変わればよいのか、わからない。

そんな中で、次男はただただゲーム漬けの一日を送っている。
どうすればいいのか…

それで、その時相談した公共機関の人に、どこか専門の場所で預かってもらって、規則正しい生活をした方が、息子も自分に自信が持てるのではないか、家から出した方が良いのではないか、と訊きました。

その時の答えが、ここにあるのと同じものでした。
「子供はまず、お母さんとしっかり繋がっているという感覚がなければ、動けません。いつも一緒にいて、何があっても見捨てられない、という感覚を与えてあげてください」と教えてもらいました。



「3物語化できない他者
<「とてつもない他者」の登場>(略)
<物語による他者性の隠蔽>
いろいろなことを話しましたが、ポイントは、人がやっていることの極端な他者性は、物語によっては説明できないということです。(略)
そして、物語によっては回収できない他者性の、いろいろな場面での露呈、これが現代社会の特徴だと思うのです。



ここまでの話を整理しておきましょう。皆さんに共有してもらいたい僕の前提は、現代社会において、様々な意味で、物語の機能が失われているということです。それは、一人の個人のアイデンティティの問題としてもそうだし、他者との関係においてもそうです。


どちらの水準においても、物語というものが機能しない、そういう社会に入ろうとしていることを前提にしたときに、どういう原理でこれからの社会について考えていったらいいのか、未来の社会を構想したらいいのかということを、章をあらためてお話していこうと思います。」