読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (軍隊での「貸し」と「借り」)

「私がこれはほとんど向井少尉の談話そのものだと感じた理由の一つは、戦場の軍人の感情がはっきり出ているからである。
戦場の軍人は必ず「敵は強かった」という。これは現実に敵と向き合っている人間の実感である。


同時にこれは一つの自慢なのであって、「その強い敵に勝った」のだという意味である。この感情はほぼ世界共通だから、それを「自慢のタネにされている」と思わず、その言葉をそのまま受け取って、新井宝雄氏のように、日本軍が強大な武器をもった強力な軍隊であったことの証拠にしたり、アメリカ軍の自慢用日本軍賛美を「無敵皇軍」の証拠とする人がいるのは少々どうかと思う。


これらは新聞記者と、本当に敵と向かい合った人間の差であろう。そしてこの「敵が強かった」という言葉は、向井少尉の短い談話にも次々に出てくるのである。(略)



彼はこの時点で、今まで述べて来た「負傷」のもつあらゆる恐怖から解放されたところなのである。その湧き出るような喜びはだれも抑えることは出来ない。しかし一方、非常に気が弱くなっていることも事実である。



喜び、弱気、実戦にほとんど参加しなかったという引け目、それを裏返した強がり、もう戦争は終わった(と現地の下級幹部は信じていた)と安堵感、と同時に「手柄タテズニ死ナリョーカ」という軍歌に象徴された、当時の「手柄意識」と、その意識を半ば強要してくる「世論」、


その「世論」の評価で彼に対する知人や家族_あらゆる面で本当に「ホッ」としたときわき起こるさまざまの感慨、おそらく厳密に読み解くと全く支離滅裂ともとれるあの「談話」も、そういう状態なら、少しも不思議ではない。


彼はおそらくその後も、戦闘期間の大部分を担送されたなどとは誰にも言わなかったであろう。そしてこれが「百人斬り」の話をしてくれと人から言われた時、時には非常識ともとれる態度でそれを拒否した理由の一つであろうし、またそれが、すぐ無罪になると信じ込んで、全く躊躇なく戦犯法廷へ出張して行った理由でもあろう。


彼には「担送」という自身の持てるアリバイがあった。そうでなければ、あああっさりと出頭はできない_戦犯の取り調べ方には、だれでも相当に疑念はもっていたし、自分の命の危険を毛すじほどでも察知すれば、人は、生物的本能で、何かの躊躇を示すはずだからである。


ではなぜ彼は処刑されたか。その理由は浅海特派員の記事そのものの中にある。(略)


だが、処刑さえされなければ、彼は幸運な負傷者であった。ルソン島なら、おそらくこれだけの負傷で、「生きたままの死体」として放置されたであろう。従ってそういう人たちと比べて、私は彼のことを特別に気の毒とは思っていない。そのことは前にも記した。


しかしそれは、虚報を事実だと証言して無実の人間を処刑場に送ったことを免責にはしない。「もっと気の毒な人がいる」という言葉で責任を回避し、自分が目前に見ている殺害に対して何もしないことをその言葉で正当化しながら、しかし実際には、その「もっと気の毒な人」に対して指一本動かそうとしないこと、それが偽善と呼ばるべきことであろう。


この偽善は常にある。今もあるが戦争中にもあった。苦しんでいる人間に「前線の兵隊さんのことを思え」という。また新聞にもそう書く。しかしそういうことを書いたり言ったりするその人自身が、前線で苦しんでいる兵士のため、本当は指一本動かそうとしているわけではない。(略)



「捨てられた兵士」というものをはじめて目にしたのは、この最後のツゲガラオ行きのときであった。それまでは、曲がりなりにも野戦病院に収容していたから目に入らなかったのであろう。


たとえ野戦病院が到底病院とは言えない場所であるにせよ、広い意味の収容所としての機能はまだ残っていたわけである。
だがその機能もほぼ停止状態になった。と同時に軍隊が壊滅し出すと、所属不明の「遊兵」が
恐るべき勢いで増えだすのである。棄てられた兵士はこの両方から生み出されたのであろう。



軍隊は原則として全員が戦闘員だが、近代戦は組織的戦闘だから、この戦闘員なるものの全員が携帯兵器をもって個人的戦闘が出来るという意味での「戦闘員」ではない。また携帯兵器を全員がもっているわけでもない。(略)


そういう部隊がひとたび壊滅状態になり、その機器を喪失すると、どうにもならない遊兵群と化してしまう。たとえば、飛行場を占領されてしまえば、銃器をほとんどもたない航空兵・整備兵・設定隊員等は、ただ命からがら撤退する以外に方法がないわけである。(略)



そして何より悲惨なのは、それらの落伍兵の中の歩けなくなった者であった。全然負傷していないのに腰が立たなくなる。今の言葉で言えばおそらく椎間板ヘルニアであろう。「人海作戦」は、実に多くのこの「負傷なき負傷者」を生み出した。」



「やはりそれは木の枝に結び付けた下帯であった。
道路際の草むらに、銃剣しか持たない一兵士がペタリと座り込んでいた。立つことが出来ないので、そのままで排便排尿をしているのであろう。それが体臭や膿臭らしい臭気とまざって、むっとする死臭にも似たものをすでに発散していた。


しかし古タイヤのタイマツの赤い炎で照らし出された顔は、テレたような一種の「ウス笑い」を浮かべていた。「もうだめだ」という時、私の知る限りでは、人間は「戦意高揚記事」で類型化されたような悲壮な顔などしない。気味悪くハシャグこともあるから、「笑って死地にとびこんだ」と書かれていても「嘘」とはいえないが、これは勇気とは関係なき動物的反応であろう。


鈴木明氏が、南京の戦犯法廷で死刑を宣告された者が「ウス笑い」を浮かべて退廷したと記した中国の新聞記事を紹介されている。これは確かに外見は「ウス笑い」であろうが、人間が耐えがたい精神的苦痛を受けている時「ウス笑い」そっくりの表情になることも事実である。(略)



この兵士には大きな外創らしいものは全くなかった。(略)しかし、バレテパスを超えて北へ北へと逃れてきた遊兵の一人であったことは間違いない。(略)危険地帯でぐずぐずしていて事故を起こしてはつまらないと思ったので、すぐ、二、三人でかつがせて車に乗せようとした。


便乗は、当時は、なかなかさせてもらえなかったことなので、私は自分のやろうとしていることが当然「感謝されて然るべきこと」だと思っていた。
ところがこの痩せ細って髭だらけ垢だらけの兵士は、不意にニヤリとして「自分は別命あるまでこの場所を動くわけにいかない」と言った。(略)



彼の言っていることは明らかに嘘であり、本心はもう動く気はないということであったろう。(略)
彼は「いま何時ですか」ときき、水とタバコをくれと言った。これはその後しばしば経験したことだが、もうダメだと観念した負傷者は、不思議に「時間」をききたがる。


人間はある限度を超えるともう食物を受け付けなくなるが、その状態において、その状態なりの一種のバランスを回復する一時期があるらしく、その時期に欲しがるのが水とタバコである。(略)


おそらく「火」と「水」は、一種の精神安定剤なのであろう。処刑される者が、何か欲しいものはないかと言われると、ほとんどの者が「タバコ」というのも同じ心理であろう。



彼はうまそうに煙を吸い込んだ。(略)
タバコをはさんだ指が小刻みに震えるので、先に灰がたまらない。これは処刑される者も同じで、その場にいた人間が後々まで憶えているのが、この「小刻みに震えるタバコ」である。



私がその小刻みに震える小さな火を見ていると、彼は火と煙に目を向けたまま奇妙な独り言を言った。「コヌマの人狩りゃもうたくさんだ」。そしてまたニヤリと私の方を向いた。(略)



「コヌマの人狩り」の意味は、戦後に収容所で知った。これは軍司令部の小沼参謀副長が、バレテパスを超えて逃れて来た遊兵軍を次々臨時歩兵部隊に再編成してバレテパスへ送り返したことをいっていたわけである。



もっとも実際にこれを立案して実施したのはTという少佐で、彼は本職軍人で私の中学の先輩であった。この「再編成・再投入」の巧みさは、歴史家は高く評価しているそうである。(略)


おそらくあの兵士は、何度もここでつかまり再編成されては、バレテパスへと再投入されたのであろう。
彼は私をも「人狩り」と思ったのかも知れぬ。(略)
「けっこうです。もうだまされませんよ、放っといてください」これが彼の笑いだったかも知れない。」