読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私は女性にしか期待しない

原発反対
原子力発電所の建設に反対する運動が各地で起こっています。
反対している人たちを見ますと、2派あるようです。ひとつは条件によっては妥協もやむをえないという「現実派」、もうひとつは絶対にいやだという「理想派」です。


たくさん補償金がとれたら、転業も考えているという人たちは、大部分が土地の男の人です。発電所を過疎対策として受け入れた市長と、喧嘩しないで、これまで通りつき合っていこうという「現実的」な派です。


もうひとつの「理想派」には、主婦がおおく、それに土地の人以外もいるようです。
能登半島珠洲市原発反対で市役所に座り込んでいる人たちに対し、県が、
「座り込みをするのは県外の人がおおい」
と言っていました。何日主泊まり込むのは専業主婦でないとできません。


未来をつくる人である主婦の考え方を徹底していくと、理想派にならざるをえません。
彼女たちは今の原発を懸念するだけでなく、未解決の廃棄核燃料の処分と、老朽施設の始末を、子孫にしょいこませたくないのです。営業の自由をとなえる企業は、金を儲けるためには、現在の法律に触れない限り、何をしてもいいという考えです。金をもうけて、設備をひろげ、もっと儲けようと思う人たちは、一つの大前提に立っています。



それは地球の資源は無限だという前提です。19世紀に近代産業がおこったときに出来たものです。資本主義に代えて社会主義を考えた人も、生産力(それは資源食いということです)は無限に進むから、貧乏人も裕福になれると思っていました。


だが資源が無限でないとなると、生産力は万能でありません。旧「全共闘」活動家が反原発に参加しているのは、彼らのマルクス批判です。
石炭も掘り尽し、石油も先行き不安で、ウランという危険な放射性物質を使い出しました。


資源がなくなるだけでなく、資源を消費することで廃棄物がたまって、それが地球を汚染し始めました。汚染のスピードも予想をはるかに超えました。今のままで行くと、地球の汚染は21世紀中に、人類の生きるための「許容度」を越えてしまいそうです。



珠洲市で、底引網を休んで座り込んだ39歳の両氏が、「子供やかあちゃんらが、原発のことを真剣に考えているのに、わしら動かんわけにいかんやろ」と言っているのも、未来を心配する主婦が先頭に立っているからです。



もうかれば何をしてもいいという考えは、もう時代に合わなくなりました。どうすれば有限宇宙船の地球を長持ちさせられるか、を考えねばならない時代になったのです。」


〇 原発の問題を語る時に、「ゼロリスク」などないと言って、交通事故や飛行機事故と並べる人がいます。
また、環境汚染をいうなら、太陽光パネルも、風力発電も、たくさんのゴミを出すことに変わりなく、野鳥に害を及ぼすこともあり、原発だけを問題視するのは、おかしいと言う人が居ます。

でも、原発は、規模が違います。単なるリスクと言ってしまえるものではないと思います。
単にその場所、その時だけの被害に納まらないのです。
一旦、起こってしまうと、もうとんでもなく長く、広く、その場所には人が住めなくなります。チェルノヴイリも、フクシマも、今後も長く、技術と人手とお金がかかります。
しかも、廃棄物の処理場は、ないのです。

工場の設置基準に、廃棄物をどう処理するのかについての項目もあり、その計画がしっかりなされていないものは、認可されない、と聞いたことがあります。

原発は、まさにその設置基準に反しています。


それほどのリスクを冒してまで、なぜ原子力でお湯を沸かして発電しなければならないのか。今や太陽光も風力も地熱もその他、様々なやり方があるのに。

結局、一部の既得権益者を守るための、詭弁ではないか、と思います。


今までは、良かれと思って原発を推進してきた。
でも、間違いだと分かった。
ならば、速やかに方針を転換する。
何故、それができないのか、と思います。