読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(「オンリ・ペッペル・ナット・マネー」)

「「ああ、燃料があれば、ガソリンがあれば……」私は心の中でうなった。(略)
問題はただ、そのための”石油”がないというだけなのである。前提の変化を無視し、「気魄演技」で何をごまかしたとて、帝国陸軍の存在自体がすでに虚構にすぎないことを、証明しつくしているではないか。


一体、言葉とは何なのか、現実とは何なのか、彼らが数万言を怒鳴り続けても、一発の砲弾が動くわけではない、そしてそれは、言葉ではいかんとんもしがたいではないか!



「一日も早く」とせきたてる准尉と分れ、私は連絡所にもどって、部隊長の返事をまった。(略)
文面は簡単「急ギ帰隊セヨ」であった。「筆記命令」はもらうな、参謀の放言と受け取っておけの意味であろうか。私は少しほっとした。「部隊長がなんとかしてくれるかもしれぬ」。



一兵卒から叩き上げた彼は、軍隊の表も裏も知っており、今までしばしば、思いもよらぬ”ウルトラC”で切り抜けてくれた。だが、もう日が暮れる。夜のバレテ峠は危なくて通れないし、車もない。明日はなるべく早く何かに便乗して行こうと思い、連絡所の床板の上で一夜を送ることにした。




この床板の一夜はその後も何回かくりかえしたが、私には変な思い出がある。この時ではないが、部下のS軍曹と出張した時、彼が夜中不意にガバとなねおき、しばらく宙に目をすえていた後「あ、夢か」と言った。夢で奥さんが面会に現れ、来年二月にはゆっくりと会えると言っていた。「そんなことはあり得ないのになぁ。招集解除はなし……」と言いつつも、彼はうれしそうだった。


その彼は確かに二月に軍隊を去った、ただし戦死によって。」


〇 このS軍曹とは、「私の中の日本軍 S軍曹の親指」のS軍曹だと思います。


「私は簡単に「早くやれ」と兵士に言うと、そのまま車に乗り込み、特等席ともいうべき運転手の隣りにすわった。員数検問はすぐ終わり、全員が乗り込み、車は走り出した。「ジャパン・シゴロ・パターイ」私はもうその言葉に少しも驚かなくなっていた。


かつて日本で「軍はこまる」「軍はこまる」が朝夕の挨拶だったように、この言葉はすでにフィリピン人の朝夕の挨拶であり、「知らぬは帝国陸軍ばかりなり」だったからである。そしてそれは、わずか十数ドラムのガソリンのために、参謀がどなりにどなり、一少尉が五日も六日もついやしておろおろし、あげくの果ては何千人かを徴用しようという現状を見れば、「だれにでもわかる」ことであった。



そのだれにでもわかることが、なぜわからなくなったのか。その原因はもちろん存在自体が虚構だったことによるが、その虚構を外部に対して支えているものが、「仲間の摩擦をさける」がさらに外部へ発展した形の、「仲間ぼめ」という詐術だったことである。



陸軍ぐらい、徹底した「仲間ぼめ」の世界はなかった。内部では派閥闘争、集団間のいがみあい、集団内の学歴差別と、あらゆる足の引っ張り合いをしていても、ひとたび対「外部」となれば、徹底した「仲間ぼめ」である。(略)



しかし、その衣裳に惑わされているのは「日本語」で鎖国している日本人だけ、しかし、それがいつしか彼ら自身に王様のような気分を味わわせるから、外地へ来ても同じ態度になる。(略)



これを耳にすれば、全フィリピン人が「日本はいまにくたばる」と内心では思っていることがわかる。それは対日協力者でさえ同じであって、彼らの多くは、ある種の義務感から表面的に協力しているにすぎない。


もちろん、ガナップのような例外はあったし、他にも例外はあった。だが例外のように見える場合も、実は、大日本帝国に協力したのでなく、真の友人となり得た一日本人に協力した例がきわめて多い。



彼らは一民族・一国家でなく、スペイン系・中国系マライ系の混合民族、言葉だけでも何十種類もあるという国である。そういう中で育った彼らには、「イカホ・トモダチ」が、従兄弟集団を中心とする血族以外との、ただ一つの絶対的戦来関係であった。


友だちだからその個人には最後まで信義を守る。それは対日協力とはまた別の規準であ。そして、その個人のためあらゆる誠実をつくすということは、絶対に「ジャパン・シゴロ・パターイ」を信じていないと言うことではなかった。



だが彼らのこの生き方は、日本人にはわからなかった。そこで対日協力者や友人は、神州不滅の信仰を共にしてくれる存在と勝手に信じ込んでいたわけである。」



(つづく)