読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(死のリフレイン)

「前にも述べたように、われわれは日没二時間前に、鍾乳洞”天の岩戸”を出た。E曹長は伝令一名をつれて、その一時間前に先発していた。明るいうちに無名河につき、渡河点を偵察するためである。(略)



砲身が九六キロ、砲架が約一〇〇キロ、揺架が確か一一〇キロ、それに前脚、後脚、車輪、防盾等、総計おそらく五〇〇キロ近いであろう。川底は道路ではなく、何が隠れているかわからない。何かに車輪がはまりこみ、流水に押されて砲が転倒したら、暗夜の川の真ん中で立ち往生である。



といって、分解搬送をすると言っても、一〇〇キロ前後のものを数人でかづぎ、つるつるの川底を水流に押されつつ暗夜にわたることは、これまた曲芸に等しく、1人が足をすべらせれば、一切がおしまいである。砲車の速度が否応なしに歩兵に送れてしまうのは、こういった理由であった。



日没少し前にジャングルを抜け出した。”天の岩戸”の休息のおかげで相当に元気を回復し、同時に、一週間以上つづいたうっとうしいジャングル内の湿気から出られたことが、みなの気分を爽快にした。洞窟やジャングルから出た瞬間の空気の味は、何ともいえない美味、本当に空気がうまいのである。(略)



薄暮、すなわち明るさが少しでも残っているうちに渡れば、さらに安全である。われわれは急ぎに急ぎ、伝令の待っていた地点から、そのまま砲を川に引き入れた。河原も相当に広く、斜面はなだらかで、まことに理想的な渡河点であった。



用心に用心を重ねたので、相当に時間をとったとはいえ、第一の難所が案外軽く突破できたので、急に気が緩んだ。そして目的地のビダグ隘路はもう目の前である。渡り終わるころ日はとっぷりと暮れ、あたりは急に闇に包まれた。



そのとき私は、はじめて、バガオの方向がボーッと赤くなっているのに気づいた。「バガオが焼けとりますな」とE曹長。「しめた」思わず私は言い、二人は顔を見合わせて笑った。急に全身の緊張がゆるんだ。火事といえば当然爆撃と考える。爆撃されているなら敵がいるはずはない。



ツゲガラオかアパリから、あるいは双方から突進してくる米戦車隊に、バガオで遮断されるかもしれぬという、心底に持ち続けていた恐怖と危惧は一気に去った。と同時に、赤い火を目当てに行けば、暗夜にも道を失うことはない。この「暗夜に道を失う」という恐怖は、平時の内地では想像できないが、完全な闇の戦場では、たとえ磁針をたよりにしても、しばしば起こる現象である。」