「政府の正統性と憲法
だから政府ができた後でも、これはなくならない。たとえば、人権や自由を制限し、踏みにじるような立法は無効で、それは法律ではない。そう宣言しているのです。
このように宣言している憲法があるので、議会が法律をつくっても、それが憲法違反であるかどうかを、最高裁判所が審査することができます。違憲立法審査権といいました。それから政府の行政が憲法に違反していれば、人民は、行政処分を取り消す行政訴訟を起こすことができます。
憲法に違反していたと判決が確定した段階で、政府の命令や行動は、全部無効になってしまいます。こうやって、人民の権利を守っているわけです。
憲法は、最高の法規ということになっていて、法律の親分のようによく言われますが、ちょっと違う。普通の法律は人民に向けているわけです。(略)
だから、憲法が人民によって支持されているということは、その政府が存在して良い理由になります。このように、政府が存在してもよいということを、政府の正統性と言いますが、この正統性と言う考え方を、キリスト教社会では非常に気にして、強調します(正統性と言う言葉自体は、儒教の朱子学からきているものですが、その関係はややこしいので、後でまとめてお話しします。)。(略)
いっぽう、この点に関して疑義がある国家は、正統性があるかどうかも疑問になってしまいます。たとえば北朝鮮。たとえばフセイン政権下のイラクみたいな独裁国家。憲法はあるけれども、自由な選挙はあるだろうか。自由な選挙がないのなら、その政府の正統性は怪しい。こういう話になります。(略)
イギリスの憲法の場合
先ほどイギリスには憲法がないということを述べましたが、じゃあ、イギリスの場合はなっているのか。(略)
イギリスは王制ですが、議会がかなり古くからあった。王は、相対的に力が小さかったわけです。(略)
そうやっているうちに、妥協が成立して、まず議会で予算を決めよう、予算というのは税額のことで、税金をいくらにするか決める。議会で決めた額だけ、王は税金を取ってよろしい。逆に言うと、それ以上は取れない。それが慣習として確立していたわけです。(略)
そうやっているうちに、議会の構成が貴族だけではなくて下院ができたり、だんだん、むしろ人民を代表するものに変化していったわけです。
もうひとつ、名誉革命の後は、ドイツから王を借りて来て、前の王様を追っ払ったりして、王と議会の力関係が変化して、協力的な関係になります。(略)
そこで、この歴史の一切合切を憲法ということにした。議会は、それを前提に法律を売ります。そのほかに裁判所が、王権と独立に、別にあった。ということで最初から三権分立のようになっていた。これがプロトタイプになって、これを真似しようという成文憲法が後から現れた。慣習というものも、憲法になりうるのですね。
たとえば、日本という国があって、その固有の領土がどうやって決まっているのかといえば、いま、北海道と本州と、四国と九州と沖縄と……が日本ということになっていますが、憲法に書いてありますか。ありません。どこで決まっているのでしょう。
私が思うに、これは条約によって決まっています。(略)ポツダム宣言を受託して降服したわけですから、日本国はそれを尊重する義務がある。(略)
ということは、条約も憲法の一種なのです。それに違反する法律を、私たちは作ることは出来ないのです。
〇ヨーロッパでは多くの血が流されて、その結果として、「人権や自由は政府が存在する前からあったもので、これを踏みにじるような立法は無効だ」という考え方が、当然のこととして認識されるようになった。
私たちの国では、その恩恵だけを棚から牡丹餅式に受け取っていた。
私たちは、それを勝ち取る為に、血や汗や涙を流していない。
また、そんな人権や自由を求める意志すらはっきり自分の中に認めていない
情況があるような気がする。
だから、今、安倍政権によって、そのどちらも奪われ、戦前と同じ、コントロールしやすい人民にさせられてしまうのも、ある意味、当然の流れなのかもしれないと思う。
でも、万が一そうなってしまったら…
私たちの中には、ヨーロッパの人々のように、血を流してまでも、自由や人権のために戦う理由やエネルギーがあるのだろうか。