読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本はなぜ敗れるのか _敗因21か条

〇 山本七平著「日本はなぜ敗れるのか ―敗因21か条」を移します。

2018年1月に載せたものです。

 

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山本七平著 「日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条」を読んでいます。

〇横井・小野田両̪氏に関するコメントを求められたことに端を発して、戦時中の記憶をどう扱うかについて、最初に色々説明しています。

山本氏は、問う人とその読者を予想しての答え、それが「戦争の正確な記録」になりうるだろうか、と問題提起します。

その中で、故小松真一氏の「虜人日記」をとりあげ、「現在われわれが読みうる最も正確な記録であろう」と言っています。

少し読み始めましたが、山本氏は、この「慮人日記」の文章と絡めるように、自分自身の同じような体験も並べて記載し、その内容をさらに具体的に説明しています。

今までと同じように、抜き書きは「」で、私自身の感想は〇で記入します。
また、抜き書きの中で、小松氏の「慮人日記」の部分は『』で記入します。


「『  序  昭和二十年九月一日、ネグロス島サンカルロスに投降してPW(捕虜)の生活を始めて以来、経験した敗戦の記憶がぼけないうちに何か書き止めておきたい気持ちをもっていたが、サンカルロス時代は心の落ち着きもなく、給与も殺人的であったので、ものを書いたりする元気はなかった。

レイテの収容所に移されてからは、将校キャンプで話し相手があまりにたくさんあり過ぎて落ち着いた日がなく、書こう書こうと思いながらついに果たさなかった。

幸か不幸かレイテの仲間からただ一人引き抜かれて、ルソン島に連れてこられ、誰一人知った人のいないオードネルの労働キャンプに投げ込まれた。話し相手がないので、毎日の仕事から帰って日が暮れるまでの短い時間を利用して、記憶を呼び起こして書き連ねたものである。』

この序文に、人は何の感動もおぼえないであろう。だが、当時、「書く」ということは、大変なことであった。

第一、紙もなけれが筆記具もない。どこを探しても、一冊のノートも一瓶のインクもない世界である。氏は、その書写材料をどうやって入手したか記していないが、手製の八冊のノートを手にしただけで、私には、労働キャンプでこれだけのものを作ること自体が、どれほど大変な作業であったかを、思わざるを得なかった。

表紙は、米軍の梱包用の分厚いクラフト紙、中はタイプ用紙である。この紙がよく入手できたと思う。カランバン第四収容所で私の隣にいたKさんは、トイレットペーパーを四枚かさねて、その上に、エンピツでソーッと書いて、戦犯裁判に備えるメモを作っていたのだから。

八冊とも、きれいな和綴じである。だがこのとじ糸は、元来「糸」ではない。カンバスベッドのカンバスをほぐして作った糸である。」

 

「では一体なぜ氏は、この二十一カ条の中に、レイテをあげずにバシー海峡をあげたのであろうか。また一方、戦記とか新聞とかは、なぜ、だれもただの一度もバシー海峡に言及しないのであろうか。

ここに、戦争なるものへの、決定的ともいえる視点の違いがあり、同時に、戦争と戦闘との区別がつかず、戦争を単に戦闘行為の累積としてのみ捕らえる、いわゆるジャーナリスティックな刺激的・煽動的見方への偏向がある。」

 

「だが人々はその最も決定的な面すなわち「バシー海峡」を見ようとせず、戦争中は武勇伝や悲愴調愛国殉国物語を読まされ、戦後はそれの裏返しにすぎない刺激的「残酷物語」を読まされて、最も恐怖すべき対象から逆に視線をそらされている。


それは、バシー海峡、この「バシー海峡」という言葉に、人々が何の反応も示さないことに、端的に表われているであろう。」


「全体の中の自分を見なおす_と言ってしまえば簡単だが、これは実際には不可能に等しい。(略)

人は大体、自分の属している組織の中で、有形無形の組織内の組織に制御されて自己を規定している。現実の行動の規範はそれ以外にない。」

「これは昔も今も変わらず、従って、戦争中の日本でも変わらず、前線でも後方でも変わらなかった。従って、敵が間近にせまった前線だからと言って、人々がそれらの情報に規制されて生活しているわけではない。

小松氏のマニラに着任した時の印象が、良い資料であろう。


『マニラ印象  吞龍(飛行機名)から降りたマニラ飛行場の暑さは、ひどいものだった。同行の鼠入大尉と自動車で大東亜ホテルに行く。(略)

ホテルの前はダンスホールで、内地では聞けぬジャズをやっている。散歩する男も女もケバケバした服装だ。内地や台湾を見た目でマニラを見ると戦争とは全く関係のない国へ来たようだ。総てが享楽的だ。「ビルマ地獄、ジャバ極楽、マニラ享楽」大東亜共栄圏三福対と言われただけのことはある。

安っぽいアメリカ文化の化粧をした変ちきりんな、嫌なところだと感じた。
店舗には東京では見ることもできない靴、鞄、綿布、菓子、服等々、女房連が見たら正によだれを流しそうなものばかりだ。品物の豊かさは昭和十年ごろの銀座の感じだ。(略)』

『武官  サイパンは陥落し、まさに日本の危機であり、比島こそこの敗勢挽回の決戦場と何人も考えているのに、当時(十九年四月、五月)マニラには防空壕一つ、陣地一つあるでなく、軍人は飲んだり食ったり淫売を冷やかす事に専念していたようだ。ただ口では大きな事を言い「七月攻勢だ」「八月攻勢だ」とか空念仏をとなえている。平家没落の頃を思わせるものがある。』

(略)しかし真の危機は、いくら大声で叫んだとて実際には人の耳に入らない。
サイパンが陥落しても、”飲んだり食ったり淫売を冷やかすことに専念していた”のは、少なくとも象徴的な意味では、何も軍人だけではない。

それは前述のように、その人の自己規定が、有形無形の組織内の組織における身の回りの小さな危機_電車に乗り遅れるかもしれぬ、早く行列に加わらねば昼食にありつけぬかもしれぬ、遅刻して上役から雷を落とされるかもしれぬと言ったような_で規定され、それ以上の大きな危機によって自己を制御するということが、実際にはできないからである。」

 

「これは、対地震でも対食糧危機でも同じであり、もちろん戦争も例外ではない。そしてそれは昔も今も一般社会も軍隊も変わりはない。

人びとは危機を叫ぶ声を小耳にはさみつつ、有形無形の組織内の組織に要請された日常業務に忙しい。(略)

だがそのとき、誰かが、危機から脱する道はこれしかない、と具体的な脱出路を示し、そしてその道は実に狭く細くかつ脱出は困難をきわめ、おそらく、全員の過半数は脱出できまい、と言えば、次の瞬間、今まで危機危機と叫ぶ大声に無関心・無反応だった人々が、一斉に総毛立って、その道へと殺到する。


危機というものは、常にそのように、脱出路の提示という形でしか認識されない。
バシー海峡は、さまざまな意味で、そういう道であった。(略)

それは、われわれが、いかに、危機に対処できずに滅びるかを示す象徴的な「名」である。


一体、何がゆえに、制海権のない海に、兵員を満載したボロ船が進んでいくのか。それは心理的に見れば、恐怖にわけがわからなくなったヒステリー女が、確実に迫り来るわけのわからぬ気味悪い対象に、手あたり次第に無我夢中で何かを投げつけ、それをたった一つの「対抗手段=逃げ道」と考えているに等しかったであろう。

だが、この断末魔の大本営が、無我夢中で投げつけているものは、ものでなく人間であった。そしてそれが現出したものは、結局、アウシュヴィッツガス室よりはるかに高能率の溺殺型大量殺人機構の創出であった。

このことはだれも語らない。しかし、「私の中の日本軍」で記したから再説はしないが、計算は、以上の言葉が誇張でなく純然たる事実であることを、明確に示している。」

 

「しかし、ちょうど「オオ、ヨシヨシ」といって子供をあやして不安を静めるような装置もまた、至る所にある。

無敵神話・東条スマイル・軍歌と国民歌謡・お守り・旗の波は、幼児から「あやしと甘え」で育った者に、理由なき鎮静を与える。

また、軍隊という組織・鉄の軍紀・階級・信念・猛訓練等、一切合財が「あやし」になる。

そして、「危機の叫び」と「あやし」のバランスで成り立つ「虚構の子守歌」は、本当の危機すなわち「脱出路」の入り口まで、各人を眠らしている。そして整整と脱出まで導かれた者が、ある状況を目にした瞬間、一切は虚構で、現実にはすべてがすでに終わっており、自分たちはただ”清算されるため”にそこにいるにすぎないことを知り、冷水を浴びせられたように慄然とする。

それが”バシー海峡"であった。」

 

「昭和十九年四月末、私は門司の旅館に居た。学校らしい建物にも民家にも兵隊があふれていた。みなここで船に積まれ、どこかへ送られる。大部分がおそらく比島であろう。

アメリカの潜水艦は、日本全体が緒戦の”大勝利”の夢からまだ醒めぬ十八年の九月に、すでに日本の近海で自由自在に活躍していた。潜水艦による輸送船の沈没は、原則として一切新聞に出ない。

従って以下に記す小松氏の記録は、十八年当時の海没の、まことに珍しい「目撃者の記録」である。

『比島行   台東製糖株式会社の酒精工場で庶汁(さとうきびの汁)からブタノールを製造する工業的試験に成功。酒精工場をブタノール工場に切り換え改造中のある日(昭和十八年七月)台湾軍兵器部から出頭するよう電話があったので、何事かと台北まで急行した。(略)

今井大尉は机の引き出しから書類を出し「実は君、名誉の話で、陸軍省整備局長から檜口台湾軍参謀長あての公電で(台東製糖会社酒精工場長小松真一を比島の軍直営ブタノール試験工場設立要員として斡旋を乞う)こう来ているんだが是非行ってくれ」
(略)

「会社も九月一日付で明治製糖と合併になるから比島に行くのも良いだろう」との意見で、重森重役から明治製糖の重役に話をしてもらい、比島行きを決定した。』


『内地帰還   当時の内台航路は、高千穂丸を始め次々と雷撃を受けて沈んでいき残るは富士丸、欧緑丸、鴎丸だけとなっていたので、なかなか乗船は困難だった。(略)海上危険の時、夫婦子供が別の船に乗る手はない。死なば諸共と心臓的交渉をした。

当時富士丸は最優秀船で速力があるので一番安全の船とされ、この船の切符には「プレミアム」がつく位だったので、欧緑丸に席を持っていた陸軍少将の人に交渉して交換してもらい、家族一同どうやら同じ船で内地へ行くことになった。(略)』


『海難   十月に十五日、富士丸、欧緑丸、鴎丸の三艘は駆逐艦一と飛行機二に護衛されながら堂々とキイルン港を出港、十三ノットの優秀船団で二十五、二十六日を無事航海した。

二十七日の夜半突然の砲声に一同飛び起きる。船は全速でジグザグに逃げまどう。(略)生きた心地なく子供等の身支度をしているうち、どうやら危機を脱したようだ。

夜明け、船が止まったので甲板に出て見れば前方に鴎丸が沈没しかかっていた。
遭難者が、ボート、筏で流れて来るのを、富士丸と共に救助した。救助といっても潮流の下手で、これら遭難者の、しかもちょうど二艘の船の処へ運よく流れ着いたボートや筏を救助するだけで、少し離れたところを流れて行くボートや筏は「オーイ」「オーイ」というだけで遠くへ流されて行ってしまう。

ボートの水兵が腰にロープをつけて我々の船まで泳いできて、ボートを手繰り寄せる等、元気者もいた。血だらけの者もあり、女子供は狂気した様だった。


それでも八時頃までかかってやっと救助作業を終わった。この間護衛(の駆逐)艦は敵潜の上とおぼしきあたりに止まっていた。


突然、すぐ目の前の富士丸の胴体から水煙があがった。やられたと船室に飛び込み子供らに用いをさせる。窓から見れば、富士丸はもう四十五度に傾きついで棒立となって沈んでしまった。雷撃後3分30秒であっけなく姿を消した。


我々の船は全速で逃げ、四時間後に再び富士丸遭難地点に戻り、救助にかかる。又、やられはせぬかと気が気でない。沖縄からきた飛行機が二機、潜水艦を探している。

富士丸の遭難者の大半を救助した頃、我々の船めがけて三本の雷跡。あわてて室に帰る。船は急旋回。そのとき、ドスンと大きな音がした。もうだめだ。が、幸い魚雷は不発で助かった。船からは大砲を乱射する、爆雷は落とす、全速で逃げ回る。生きた心地はない。門司までの一昼夜は実に長い、嫌な、命の縮まるような思いをした。

歩き始めの紘行も、この船旅にすっかり弱って歩けなくなってしまった。(略)』


結局、台湾を出港した当時の最優秀船三隻は、駆逐艦と航空機に護衛され、自らも対潜水艦用の砲を搭載しながら、三隻とも電撃をうけた。小松氏の乗った欧緑丸が無事助かったのは、奇蹟的に魚雷が不発だったというだけである。

これがその約半年後の昭和十九年四月となると、あらゆる面で、危機の度は倍増も三倍増もしていた。氏は雷撃をうけた富士丸が、わずか3分30秒で沈んだと正確に時間を計っておられる。(略)

だが私が乗船した頃には、米軍の魚雷が高性能になるとともに日本側は老朽船のみになっており、平均十五秒で沈没した。」

 

「近づいてみると、恐怖すべきボロ船であり、一見してスクラップであった。それも道理、後で聞いたことだが、この船は船名が玉鉾丸、船齢すでに二十七年、最高速度五ノット半という、当然、廃船とすべき代物であった。(略)


甲板の舷側ぞいに、何やら四角く仕切られた木造の小屋、人の胸ぐらいの高さの小屋がずらりと並び、それが文字通り角材に板を釘付けした粗末なつくりで、しかもベトベトに汚れた感じであり、その下部に開口部があって、そこから汚水らしきものがたえず流れ出し、船腹をつたい、これを広く濡らして海面にまで流れている。(略)

「便所だ」二人はほぼ同時に気づいた。考えてみれば、こういう装置が必要なことは当然である。(略)

その船の船艙に三千人を押し込む、人を貨物と考えれば確かにそれだけのスペースはあり、従って物理的にはそれも不可能と言えぬかも知れない。しかし貨物には排泄はない。」


「これはまことに奇妙なことといわねばならない。というのは陸軍の軍人に、船舶の系統的な運航が指示できるはずがないからである。ましてその大部分を占める歩兵出身の将校などは、船舶の運航について、基本的な予備知識さえ持っているはずはない。

従って、輸送の際は輸送の専門家にまかせれば最も能率的なはずなのだが、至る所に軍人が入り込んで来て、ただのさばっているのが当時の実情であった。」


「S中尉はこの実情をよく知っており、知っているがゆえに前述の注意となったわけだが、これは当時、軍に接したすべての人が痛感した欠陥であることは、次に引用する小松氏の文章でも明らかである。

そして、その軍人たちは、威張ることと居眠りをすることと精神訓話で聴者のねむ気を誘発し、それらの結果、実務を妨害する以外に脳のない存在だった。(略)」

 

〇あの3・11の時、フクイチと東電の関係を見ながら感じたのは、まさにこれと同じ構図、そして雰囲気でした。日本がこんな酷いやり方の上に成り立っているとは、
心からショックでした。

 

 

 

「そしてこの奇妙な現象は、常に日本に発生するのである。そしてこの被害はすべての人間がうけ、今もうけているわけだが、小松氏の記録から、それに関連する箇所を引用してみよう。


『文官   軍政下、いや武家政治下の文官の存在は、哀れというよりほか表現のしようがない。(略)そして文官には「同等以上の階級の軍人には敬礼すべし」と命じ、軍人には「同等以上の文官には敬礼しても差しつかえなし」と許している。

武官と文官は万事この調子で区別されている。

文官の方は将校と見れば、自分の方が社会的地位も、官等も俸給も上だと考え、軍人等は何も知らぬと馬鹿にする。武官は「軍属か?」と慰安所の女より下らぬ、何の役にも立たないものだと、てんで問題にしない。それは軍人同士でも本科将校が特科将校を馬鹿にして、優越感を一人で持っているのより、一段と甚だしいものがある。


こんな具合だから両者がうまく連絡取れる道理はない。それでも状況の良い時はお互いに仕事の分野も定まっていたから良かったが、少し状況が悪くなれば何をするにも兵力がなければ何もできなくなり、文官はいよいよ無用の長物となった。

国家総力戦というのに、文官は毎日する仕事もなく、ただ仕事をしているふりをしたり、堂々と遊んだり、各々の人柄により勝手なことをしていた。そして皆、不平ばかり言って酒を飲むこと、女と遊ぶことに専念していた。

これが民間会社なら忽ち破産する様相を呈していた。』

 

『イピイル酒精工場   (略)現在は砂糖がないので製造を中止しているという。後に垣兵団の主計将校に「砂糖がなくては酒精は出来ません」と言えば驚いて、感心したのか、困ったのか分らんような顔をしているのにはあきれてものが言えなかった。工場だけあれば酒精は出来ると思っていたらしい。(後略)』


『ブタノール工場中止   (略)工場は出来ても石炭が運べんので運転見通しがたたず、やむなく工事を打ち切り工場資材を他に転用することになった。比島のブタノールは当分だめということに決まった。(略)

早々人事係のところに行き内地や台湾では醗酵技術者が不足して困っている時故、御用済みの我々を直ちに帰国させるように交渉した。すると「軍属は用があっても無くても一年は南方におらねばならない。第一、一年もたたないうちに民間から採用した者を帰しては軍の威信にも関わる。

あなた方の勲章にも関係がありますからしばらく我慢してくれ。皆そうなのだから」という。戦争に勝つために是非必要だからというから、会社を辞めて来てみれば何のことはない。憤慨してもどうにもならない。

「それなら毎日遊ばせておかずに仕事を与えよ」と交渉すれば「そのうちに何とかします」という。煮え切らん話。「勲章は不要故、帰るチャンスがあったら取り計らってくれるように」と頼んで帰る。』

当時、実情はどこでも同じであった。そして最近の地方自治体の内部事情などを聞くと、今もただ主役が交替しただけで、基本的には、これときわめてよく似た状況が現出しているように思う。」

 

「翌日午後一時、乗船が開始された。もう疑念の生ずる余地はなく、船艙の割り当ては一坪十四人であった。もっとも船艙はいわゆるカイコ棚式に二段になっており、従って、一段ずつ数えれば一坪七人である。ただその高さはやっと胸までの二段であり、従って、ひとたび船艙に入れば、その人は、直立することはできない。(略)


夕刻までに乗船を完了せよといわれても、この速度ではどうにもならない。便所の列の切れ目から桟橋を見れば、しとしと降る雨の中に、驚くべき人数が整列したまま静かにたたずんでおり、一向に減ったという感じがない。「あれが全部夕方までに乗るのか、乗ったら一体どうなるであろう」、考えただけで、頭が変になってくる感じであった。


私は船艙に降りた。ぎっしり積載された人間の吐き出す一種の暈気ともいうべきものが充満し、空気が濃密になり、臭気の立ち込めた蒸し風呂といった感じである。湿度百パーセントで、船艙の鉄板の天井から絶えず水滴が落ちる。(略)誇張でなく息がつまる。カイコ棚に押し込まれた人間の、うるんだように光る眼が一斉にこちらを向く。」


「すべての人間は思考力を失っていた。否、それは、思考を停止しなければ、できない作業であった。人がまるでコンベアに載せられた荷物のように、順次に切れ目なく船艙に積み込まれ、押し込まれてぎっしりと並べられていく。

そうやって積み込んだ船に魚雷が一発当たれば、今そこにいる全員が十五秒で死んでしまう_。この悲劇は、架空の物語でなく現実に大規模に続行され、最後の最後まで、ということは日本の船舶が実質的にゼロになるまで機械的につづけられ、ゼロになってはじめて終わったのであった。」


「そしてこの「押し込み率」は、その計算の基礎は「私の中の日本軍」で記したから再説しないが、ナチの収容所の中で最悪と言われたラヴェンスブリュック収容所の中の、そのまた最悪といわれた狂人房のスペースと同じなのである。おそらくこれは、これ以上詰め込んだら人間が死んでしまうぎりぎりの限界である。


アウシュヴィッツの写真を見る。確かに悲惨であり、あれもカイコ棚である。しかしあのカイコ棚には、寝るだけのスペースはあった。船にはガス室はあるまい、と言われれば確かにその通りだが、しかし、この船に魚雷があたったときの大量殺戮の能率_三千人を十五秒_は、アウシュヴィッツの一人一分二十秒とは比較にならぬ高能率である。

でも、魚雷はガス室ほど確実に来るわけではない、という人もあるかもしれない。しかし、もう一度言う。では何隻の船が終戦時に残っていたのかと。結局すべての船が、早かれ遅かれ、最終的には、世界史上最大能率の大量溺殺機械として、活用されただけである。


一体、この船艙に詰め込まれたことと、ガス室に詰め込まれたことと、実際に、どれだけの差があるであろう。両者とも、身動きは出来ず、抵抗の能力はなく、ただ、死が来るのを待っている。

差があるとすれば、一方はコックをひねられればおしまい、一方は雷跡が見えればおしまい、という差だけではないか_。

アウシュヴィッツといえば人は身震いをする。しかし、小松氏が「バアーシー海峡」の名を挙げても、人は、何の反応も示すまい。理由は何であろう。アウシュヴィッツの犯蹟は明らかになった。多くの写真が公表され、多くの記事が書かれた。同じことは「収容所群島」にもいえる。


しかしバシー海峡は何も残していない。海がすべてを呑みこみ、一切を消し、人々はこの海峡の悲劇だけでなく、この海峡の名すら忘れてしまった。従って、敗因第「一五」を人は奇妙に思うのも不思議でないかもしれぬ。

しかし奇妙に思うこと自体が、今に至るまで、真実は何一つ語られていないことの、決定的な証拠ではないのか。」

 

「ドイツ人は明確な意図を持ち、その意図を達成するため方法論を探求し、その方法論を現実に移して実行する組織をつくりあげた。たとえ、その意図が狂気に等しく、方法論は人間でなく悪魔が発案したと思われるもので、その組織は冷酷無情な機械に等しかったとはいえ、意図と方法論とそれに基づく組織があったことは否定できない。


一方日本はどうであったか。当時日本を指導していた軍部が、本当は何かを意図していたのか、その意図は一体何だったのか、おそらく誰にもわかるまい。


というのは、日華事変の当初から、明確な意図などは、どこにも存在していなかった。ただ常に、相手に触発されてヒステリカルに反応するという「出たとこ勝負」をくりかえしているにすぎなかった。」


「そしてこのことを非常に大がかりにやったのが、「バシー海峡」であった。ガソリンがないと言えば反射的に技術者を送る。相手がそこへ来ると言えば、これまた反射的にそこへ兵力を持っていく。そして沈められれば沈められるだけ、更に次々と大量に船と兵員を投入して「死へのベルトコンベア」に乗せてしまう。

それはまさに機械的な拡大再生産的繰り返しであり、この際、ひるがえって自らの意図を再確認し、新しい方法論を探求し、それに基づく組織を新たに作りなおそうとはしない。

むしろ逆になり、そういう弱気は許されず、そういうことを言うものは敗北主義者という形になる。」


〇あの「東洋的な見方」をこの場に単純に当てはめて考えるのは良くないのかもしれませんが、どうしても、考えてしまいます。

機心」は良くないと合理的な方法を考えることは間違ってるとされている時、方法論をあれこれ議論するなど出来ないのでは?と想像します。

また、言葉に対する信頼感も、議論することの大前提も「東洋的な見方」からは、その糸口さえ見つけることが出来ません。

言葉などに拘ってはいけない。
しかも、あの「禅問答」を見ると、あれは、話し合いとかコミュニケーションとかいうものではなく、むしろ関係の断絶を意図してるのでは?と思えるようなものです。

人に頼るな、と。自分で答えを見つけよ、と。

でも、そうなると組織的な動きなど出来ません。
言葉に対する信頼感がないところで、話し合いもできない。

それでいて、天上天下唯我独尊。
ひとりひとり、内から湧き上がる己を大事にせよ。


大勢が力を合わせて一つの大きな力にしなければならない局面で、
私たちの国には、どんな考え方があるのだろうと、いつもわからなくなります。

 

 

 

「この傾向は、日露戦争における旅順の無駄な突撃の繰り返しから、ルバング島小野田少尉の捜索、また別の方向では毎年毎年繰り返される「春闘」まで一貫し、戦後の典型的同一例をあげれば「六〇年安保」で、これは、同一方法・同一方向へとただデモの数をますという繰り返し的拡大にのみ終始し、その極限で一挙に崩壊している。


一方、私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。同じ型の突撃を馬鹿の一つ覚えのように機械的に何回も繰り返して自滅したり、同じ方向に無防備に等しいボロ船船団を同じように繰り返し送り出して自ら大量「死へのベルトコンベア」を作るようなことは、しなかった。

これは、ベトナム問題への対処の仕方にも表れているであろう。
あれが日本軍なら、五十万を送ってダメなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万を送る。そして極限まで来て自滅する時「やるだけのことはやった、思い残すことはない」というのであろう。」


「われわれが「バシー海峡」と言った場合、それはその海峡で海没した何十万かの同胞を思うだけでなく、この「バシー海峡」を出現させた一つの行き方が、否応なく、頭に浮かんでくるのである。

従って小松氏が、敗因の中にこの海峡の名を挙げたのは、当然すぎるほど当然であった。太平洋戦争自体が、バシー海峡的行き方、一方法を一方法へ拡大しつつ繰り返し、あらゆる犠牲を無視して極限まで来て自ら倒壊したその行き方そのままであった。


だがしかし、わずか三十年で、すべての人がこの名を忘れてしまった。なぜであろうか。おそらくそれは、今でも基本的には全く同じ行き方を続けているため、この問題に触れることを、無意識に避けてきたからであろう。

従ってバシー海峡の悲劇はまだ終わっておらず、従って今それを克服しておかなければ、将来、別の形で噴出してくるであろう。」


原発事故はまさにそれだと思います。
過去に何度も何度も福島の事故に繋がる予兆はありました。
でも、そこでその危険性をしっかり考えることはせず、ただ「同じ行き方」を
続けるだけだったから、あの事故は起こりました。

それにもかかわらず、今もまだ「同じ行き方」を続けようとしています。
「極限まで来て自滅しなければやめられない」という山本氏の予言通りに。