〇 風と共に去りぬを読みました。
最初に読んだのは、中学に入ってすぐの頃でした。
とても引き込まれ夢中になりました。
河出書房 キャンパス版世界の文学18 大久保康雄 竹内道之助訳。
今回で3度目です。
子育てで気持ちに余裕がなかった時期が過ぎ、
35~6歳の頃に読んだのが2度目です。
その頃、いい加減で不真面目なクリスチャンでいることに、迷いが生じ、
こんな中途半端なクリスチャンなら、いっそきっぱりやめてしまおう、と思いました。
そんな状態で読んだのが、この物語だったので、
この本は、まさにそれがテーマでは?と思えるほど、
聖書の言葉を具現化した物語に感じられました。
メラニーの存在感が増し、その言動の意味をあれこれ考えました。
もう細かなことは憶えていないのですが、2~3か月、この本のことばかり考えていた記憶があります。
今回は、大久保訳ではなく、鴻巣友希子訳で読んだのですが、
あの赤毛のアンが、村岡花子と掛川恭子とではずいぶん違っていた(掛川訳は完訳だったので、当然ですが)のに比べると、その違いはあまり感じませんでした。
ただ、以前よりも更にメラニーとレットの言動が印象深く感じられました。
メラニーは誰もが認める立派な貴婦人。
レットは誰もが認めるわかりやすい悪党。
でも、子供に対する態度は不思議なほど似ていて、
いわゆる律法的ではなく、
その子供の想いや気持ちを汲んだ対応になっています。
そのやり方が、スカーレットに対する対応にもなっているのかな…などと思いました。
メラニーとレットは大人。
アシュレとスカーレットは子供。
スカーレットとメラニーは似ていて、
レットとアシュレも似ている。
違う部分と似ている部分が入り組んでいるので、
あれこれ考えてしまう仕掛けになっているようです。
今回も考えてしまったのは、メラニーはスカーレットとアシュレの気持ちを
全てわかっていた……ということは、どういうことなのか…。
わかっていて、それでもスカーレットに頼るしかなかったから、気付かないふりをしていた?
じゃあ、逆にメラニーはスカーレットを利用していたということになるのでは?
等々…。
そして、読むたびに考えてしまうのは、ラストシーンです。
もう本当にレットの心は取り戻せないのか。
最初に読んだ時も、二度目に読んだ時も、そこが一番気になりながら、
散々あれこれ考えた挙句、最後には、やはりこれはもうどうにもならないのだろうな、と思いました。
今回も、やっぱり読んだ直後はそう思いました。
どうにもならない…と思わせるような書き方です。
でも、実は、最近になって、少し違うのではないか、と思い始めました。
大切な人を次々と失い、心細さの中で、スカーレットは、「レットさえいれば、もう一度貧しくなってもかまわない。寒くても、それどころか、ひもじい思いをしたってかまわない。」とまで思います。これは、あの敗戦の中で「もう二度と餓えない!」と決意した強烈な体験を上書きするような体験だと思います。
スカーレットは、メラニー亡き後、アシュリの面倒を見ていく、という義務を負いました。レットから見れば、スカーレットには必ずアシュリが「くっ付いている」状況になるわけで、そんな状況で、スカーレットと一緒にいたくない、という気持ちはとてもわかります。
タラに戻り、鋭気を養い、ここから先、スカーレットはどうするのか。
「レットの胸中を思うと、急に胸が痛んだ。自分の悲嘆も、レットの言葉の真意は何かという不安も吹き消してしまうような、欠くところのない思いやりだった。軽蔑の気持ちの混じらない思いやりを、スカーレットは生まれて初めて抱いた。それは、初めて他人を理解しようとしたことから湧いてきたものだった。
しかもレットのぬかりない周到な言動も、自分にそっくりでよく理解できたし、かたくななプライドから拒絶を恐れて愛情を隠していたというのも理解出来た。」
〇レットとの「闘い」の中で、スカーレットは少しずつ大人になっているように見えます。
レットはもう45歳ということで、一気に老け込んだような描写になっていますが、
世間体を憚って、これからもちょくちょく帰って来る、と言ってますし、
壊れた愛はそのままに、違う「仲良し」になればいいのでは?と思います。
もし、スカーレットの中に生まれたレットへの想いが本当であれば、きっとそうなっていくのでは、と思いました。
3度目にして、やっとそう思えるようになりました。