読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (十 母性)

「すこし調子を変えて、私が外国を旅行した時の話をしましょう。(略)

しかし、男女の関係がどんなものか、家庭というものがどんな状態になっているか、こういうことになると、ちょっと人とつきあっただけでも大体のことはわかります。(略)


なにも外国ばかりでなく、私たち日本人同士でも、同様のことがいえましょう。日本の社会情勢はわからなくても、初対面の人を見て、この他人はいかにも金に窮しているとか、その収入の大部分が、飲酒につぎこまれている型、衣服に注ぎ込まれている型、貯金をする型、無方針に散在する型、等々おおよその見当はつきます。」



「結論はすでに出ております。「女らしさ」などというものを、封建的にせよ、近代的にせよ、抽象強化してはなりません。それはもっと包括的なものです。女は男にとって、友人であり、姉であり、妹であり、子であり、相棒としての主婦であり、そしてなによりも、それらを結び付ける要としての母でなければなりません。


男についても同様のことがいえます。今日、私たちからもっとも失われているものは、女の中の母であり、男の中の父であります。しかも、多くのひとが、その喪失を独立と勘ちがいしています。新しさと勘違いしております。その結果、めいめいは独立しても、頼みにならぬ妻や母親、頼みにならぬ夫や父親が多くなってしまいました。」


〇 ここは、最初と最後だけ、メモしました。外国の友人宅を訪問した福田氏は、その友人の奥さんが、いわゆる愛嬌のない自己中心的な人であり、アメリカの主婦には、このタイプの人が多い、と書いています。
自己主張し羞恥心のない母性を失った女性が多いと。

友人の十六歳の娘は羞恥心のある母性の芽が出かかっている、真の女らしさが感じられる人なのに、なぜ、ハイスクールや大学に行くようになると、あの女らしさがなくなるのか、と。

そして、アメリカでは、「男がナイトで女はクィーン」なので、「男に女を求めさせる形式」になっている、そのため女性は「女らしさ」を失ったのでは、という説明がされています。

実際にアメリカの女性を知らないので、私としては、そうなのか~と思うしかありません。


ただ、ここを読んで感じたことを書いてみます。

福田氏は女らしさ=母性としています。

「女は男にとって、友人であり、姉であり、妹であり、子であり、相棒としての主婦であり、そしてなによりも、それらを結び付ける要としての母でなければなりません。」と。

母性に対して、かみ合うのは、子供ではないのか、と思うのですが。

日本では伝統的にそういう様式だから、と言われてしまえばそれまでですが、男は女に、母を求める。つまり、女の前で、子供で居られる状況を求める。
そんな気がします。

だからこそ、「子供のような」アメリカの友人の奥さんが女らしいとは思えなかったのではないでしょうか。

それで、思い出したのは、あの「風と共に去りぬ」の中のレット=バトラーです。
スカーレットの天真爛漫さを愛し、自己中心的で我儘な生き方を愛した。
これは、「父性」ではないか、と思うのですが。


もし、男の方に本当に父性があれば、レット=バトラーのようになるのでは?と思うのですが。どうなんでしょうか。
もっとも、レット=バトラーも、最後はスカーレットに疲れ果て、去って行きます。

本音を言うと、男に母親を求められることには、うんざりします。
それでも、私も、結婚当初、夫との闘いの中で、家庭の平安を願うなら、母になるしかない、と思ったというのが実情です。


今は、「イクメン」も現れ、少しずつ夫婦のあり方が変わっていることに、希望を感じます。