読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (九 「女らしさ」ということ)のつづき

〇 この福田氏の「私の幸福論」を読んだのは、確か5~6年前だったと思います。
それまで、福田恒存という名前すら知りませんでした。
当時は、とてもすんなりと、心に入って、一ファンになりました。

でも、今読み返してみると、いちいち引っかかります。何故、こんなにも、曖昧で玉虫色なのだろうと。例えば、男女同権に反対しているわけではないと言いながら、女性が虐げられていたなどと、考えるな、と言います。

「間違いは封建時代という過去にあったのではなく、それが滅び去った現代文化の無様式そのもののうちにあるのです」と言います。

…ということは、封建時代に戻った方が良いと言ってるのか?と思ってしまいます。

そこが、モヤモヤして、今日はそのことを何度も考えました。
それで、ふと、思いつきました。

河合隼雄著「中空構造日本の深層」の中にあった言葉を読み直してみました。

「このことは、われわれの論述の流れと関連して言うならば、神話の知を語るときに、明確に規定された概念によるよりは、多義性を許すメタファーによって語るのが適切であるということになる。」


「たとえば、魂を風というメタファーによって語ろうとするとき、風ということによってのみ伝え得るもの、対象としての風のみでなく、それを肌に感じ、それによって動く草の波立ちを見て自分の心の中に立ち動くもの、それらすべてを含むものとして、風はメタファーであり得る。


それは日常経験としての風を超え、言語化し難い心の動きをそこにもたらすのである。」


人間がこの世に真に「生きる」ためには、個々人にふさわしいメタファーの発見と、それの解読を必要とする。ところが実情は、既に述べたような現代の管理的な社会機構によって、メタファーは全体の構成から段々と排除されつつある。それが現在生き残っているのは、むしろ文化の周辺部に存在する、マンガ、SF、コマーシャルなどの世界ではなかろうか。


〇 つまり、福田恒存が言っているのも、これなのではないか、と。
昔は女性は虐げられていた。男尊女卑だった。でも、そういう物語の中で、「個々人にふさわしいメタファー」を持って生きていた人々は、案外、現代の私たちが思うよりも、生きやすかったのかも知れない。

(もちろん、最悪な状況を生きていた人もいたでしょう。でも、それは、現代でも同じで、ほとんどの人は、しっかりとした「メタファー」があったので、今から見ると、「騙されている」ように見えても、その時は、むしろ「真に生きていた」と。)

そう考えると、この後の、


「ところが、その過去の一時代の文化が崩れ去ったのに、私たちの意識は現実に追いつかず、過去の「女らしさ」「男らしさ」の概念だけが残っている。それが現代です。
間違いは封建時代という過去にあったのではなく、それが滅び去った現代文化の無様式そのもののうちにあるのです。


昔が悪いのではなく、今が悪いのです。あるいは、昔のものを今に適用しようとすること、そのことに間違いがあるのです。」

そして…

「そういう文化の様式が失われた現在、今日の女は、自分一人の力で、あるいは女性解放論者の力で、いや、女だけの力で、「女らしさ」を造り上げることは出来ない以上、かえって弱くなっている。私はそう思います。」


「男も女も、同様に、現在、辛い目にあっているのです。私たちは、それに堪え、おたがいにいたわりあわなくてはならぬはずです。」


〇 メタファーのない世界で、男も女も辛い目にあっている。かえって弱くなっている。と言っているのだと思いました。