読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「空気」の研究


「…人間の儀礼には、道理の判然せざるもの尠からずと雖も、吾人は今日の小学中学等に於いて行はるる影像の敬礼、勅語の拝礼を以て殆ど児戯に類することなりといはずんばあらず。憲法にも見えず、法律にも見えず、教育令にも見えず、唯当局者の痴愚なる頭脳の妄想より起こりて、陛下を敬するの意を誤まり、教育の精神を害し、其の間に多少の紛議を生ずべき習慣を造り出し、明治の昭代に不動明王の神府、水天宮の影像を珍重すると同一なる悪弊を養成せんとす。

吾人はあえて宗教の点より之を非難せず、皇上に忠良なる日本国民として、文明的の教育を養成する一人として、人類の尊貴を維持せんと欲する一丈夫として、かかる弊害を駁撃せざるを得ず、これを駁するのみならず、中等学校より、是等の習俗を一掃するは国民の義務なりと信ずるなり、(第一高等学校は内村)氏に勧告して除票を差し出さしめたりと聞く。勅語の礼拝は、如何なる法律、如何なる教育令によりて定められたることなるや。(略)」(内村鑑三不敬事件のときのキリスト教会代表的人物、植村正久の論評)


〇このような文章は、何というのでしょうか?文語体?
難しい漢字も多く、意味が取りにくいのですが、3回くらい読むと、なんとなくわかってきました。

つまり、教育勅語の礼拝をさせることは、陛下を敬うという意味を取り違えていて、水天宮の影像を珍重するのと同じような、ばかばかしくくだらない悪弊を生むやり方だと言っているのだと思います。

昔から、そう考える人は一定数居たのでしょう。でも、多数にはならないので、この国には、教育勅語の暗唱と礼拝が定着してしまった。

今も、そうなりそうで、暗澹たる気持ちになります。

「私は、日本人が宗教的に寛容だという人に、この例を話す。これはどう見ても寛容ではなく、ある「一点」に触れた場合は、おそるべき不寛容を示し、その人の人権も法的・基本的権利も、一切無視して当然だとするのである。」

「言うまでもなく、この場合、「影像」を臨在感的に把握し、その把握を絶対化することによって、空気の支配が確立し、それが全日本人を拘束しているわけである。

そしてこれが、その対象が御真影勅語だからでないことは、同じ状態とそれに基づく不寛容が戦後にもあらわれていることが示している。」


「問題はここなのだ。対象の相対性を排してこれを絶対化すると、人間は逆にその対象に支配されてしまうので、その対象を解決する自由を失ってしまう、簡単にいえば、公害を絶対化すると公害という問題は解決できなくなるのである。

そしてこの関係がどうしても理解できなかったのが昔の軍部なのである。」


「だが非常に困ったことに、われわれは、対象を臨在感的に把握してこれを絶対化し「言必信、 行必果」なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見るのである。」

「そして、純粋と規定された人間をまた臨在感的に把握してこれを絶対化して称揚し、不純と規定された人間をまた同じように絶対化してこれを排撃するのである。」

〇ここを読んで思い出したことは、また、あの3.11の頃のこと。

原発の反対運動をする人々が、皆それぞれに純粋でまじめで一生懸命であるが故に、少しの「不純」も許せずに、攻撃しあって、一緒に活動できなくなっていく、という様子を見ました。