読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「空気」の研究  「水=通常性」の研究

「そのため、われわれは今でも「水を差す自由」を確保しておかないと大変なことになる、という意識をもっており、この意識は組織内でも組織外でも働き、同時にこの自由さえ確保しておけば大丈夫という意識も生んだ。

だがしかし、この「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基であることを忘れていたわけである。

そして日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない「父と子の隠し合い」の世界であり、従ってそれは集団内の状況倫理における私的信義絶対の世界になっていくわけである。

そしてこの状況倫理とは実は「空気」を生み出す温床であることはすでにのべた。そしてその基本にあるものは、自ら「状況を創設しうる」創造者、すなわち現人神としての「無謬人」か「無謬人集団」なのである。


以上で記してきたように、「空気」も「水」も、状況論理と状況倫理の日本的世界で生まれてきたわれわれの精神生活の「糧」といえるのである。(略)

空気と水なしに人間が生活できないように「空気」と「水」なしには、われわれの精神は生きていくことが出来ないからである。

その証拠に戦後勅語、「自由」について語った多くの人の言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使しうる「空気」を醸成することに専念しているからである。

そしてその「空気」にも「水」が差せることは忘れているという点で、結局は空気と水しかないからである。」


〇これが、「水=通常性」の研究の最後の言葉です。

結局、どうすればよいのか…問題は簡単ではない、と思い知らされます。

「自由」になるためにはどうすればよいのか…。

そのような「空気」を醸成すること。

でも、その「空気」にも、「水」が差されてしまえば、また元の木阿弥。

これまでも、ずっとその繰り返しだったし、これからもその繰り返しで行くしかない

ということなのでしょうか。

唯一のヒントは、まず、「「空気」から脱却し、通常性的規範から脱し、「自由」に

なること。」という言葉。

私は、かなり内向的で、対人恐怖症的な人間ですが、それでは、子どもを育てられな
いと、所謂「認知行動療法」的に行動して、とってつけたような笑顔でも、ぎこちない不自然な態度でも、人に話しかけ、コミュニケーションの練習をしました。


今も、人とのコミュニケーションは苦手で、出来れば、人と関わらずに生きていたい方なのですが、でも、そのことで、寂しいというのも事実で、結局は、苦手でも、練習する以外に、方法はない、と思って生きています。

下手でもいいから、逃げずに練習する、それ以外に、必要な態度を身に着ける方法はないと思うのです。

だから、今、思います。

下手でも、不自然でも、ぎこちなくて無様でも、「空気」から脱却する態度を身に着ける練習をしよう、と。