読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

東洋的な見方

「<このままということ 1963年>  さらに語を換えると、悟らぬ前を「母」といい、悟ってからを「子」というと、さらにこの悟解をも離れて、「母」と「子」とともに亡くなるとき、「大法輪を転ずる」時節が来るというのである。

何やら気にかかるので、悟ってみたいと思った。いよいよ悟ってみると、その悟りをも捨てて、元の木阿弥になれというのである。

元も子もなくなっては、生きている甲斐もないように感じられる。それでよいか、如何?」


「言葉に出さぬとわからないというし、言葉に出すと、その言葉に取りすがってくる。取りすがられると、支離滅裂で、始末におえなくなる。

まことに、人間という存在は厄介なしろものである。が、その厄介な所に、面白味があって、人間生活も捨てたものでない。」


〇ここで思い浮かんだのは、あのキリスト教の「ファンダメンタルズ」です。聖書の言葉に「取りすがって」始末におえなくなってしまう…

人間にはそういう面があるので、禅では「言葉に取りすがれないように」しているのかな?と思いました。

「必ずしも悉くがこのように自覚しなくても、一種の煩悶・懊悩・憂心・不安の念を抱くのが、人生の常である。それで何かの方法で、これらの制約から離れたいとする。これが第一段である。


それが師匠につくなり、自分で考えたりなどして、何かの知解覚悟があったとする。これが第二段。

次には、その知解なるものに執着して、「自分にはこれがわかった、これが悟れた」などという意識が出てくる。そうすると、その意識に執着しようとする。

最初の執着とは違うが、その執着たるに至りては、同格である。これがまた禍の基となりて、本来の自由を拘束する。それで第三弾として、この執着からまた離脱しなくてはならないのである。

そうしないと本当の自由、本当の自主性を体得することが不可能である。」


「第一の心得は、「空の座」にすわること、「ただいま・ただここ」の一念に徹底して、ただ凡夫と成り切って、それから自然に湧き出る大慈大悲の室の中で、忍辱と精進の大方便の衣裳を著けて、自由・自在・自主で、自然なる「創造者」を働くことである。

これが人間として「このまま」の生き方である。」