読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本はなぜ敗れるのか _敗因21か条

「小松氏は日記を書いた、だがそれは、それをそのまま日本に持って帰れるということではない。(略)

小松氏が内心で恐れ、骨壺にまで隠させた「本書を没収しそうな相手」が、一体米軍なのかそれとも日本人だったのか、私は少し気になった。(略)

だがおそらく小松氏は、この米軍の下で働く日本人、いわば、虎の威を借りて、同胞の日本人を米軍以上に苛酷に扱う木っ端役人的日本人に、戦友の遺品まで強制的に捨てさせられたという話を、耳にしたか、自らそれと似た体験をしたかの、いずれかであったのであろう。氏を用心深くさせたのは、おそらくそれである。」


「そのとき、米軍のゴムびきレインコートを着た一人の男が私に近づき、その毛布を捨てろといった。彼は日本人であり、戦争終結前の捕虜であった。
私は頑として拒否した。押し問答がつづき、殴り合いになりそうな険悪な状態になった。

そのため、四列のうち私の列だけ進まない。不審に思ったらしく米兵が来た。私は裸のまま、下手な英語で手短に事情を説明した。彼は簡単に「OK、ゴーヘッド」と顎をしゃくってシャワーを示した。私は毛布を抱いたままジャワ―を通過した。

この毛布は今でもある。私は幸運だったのだろう。この時もし米兵が来てくれねば、おそらくこの毛布は闇の中に消えていたと思う。というのはこの時私と前後してシャワーの関門を通過したアパリ気象隊のN少尉は、うまくいかなかったからである。」



「捨てる必要のないものまで強制的に捨てさせられた、という体験は、収容所内のすべての人がもっていた。」



「なぜこの種の人たちは外国の権力を笠に着ると、あれほどまで同胞に横柄かつ冷酷になれるのであろうか。」


「現代戦、特にジャングル戦は戦線が犬歯状に入り込むから、敵は、前にいるのか横にいるのかわからない。もちろん私のところにも弾丸は飛んでくる。だが発射音は一瞬であり、その瞬時の音から、相手の射撃位置を的確につかむことは、簡単ではない。

内地から来たばかりの兵士が逆方向に伏せ、敵に足を向けて銃をかまえるといった珍現象は少しも珍しくない。

そして時には慌てて反射的に広射する。またたとえ一瞬目標らしきものが見えたとて、射った兵士には何もわからない。


近代戦では敵影は見えない。そんなわかり切ったことを今でも知らない人がいると会田雄次先生が言われたが、この取材者もその「わからず屋」の一人なのであろう。
このような状態で、兵士にこういった取材をして、一体何を聞き出そうというのだろう、どういう予定稿を埋めたいというのだろう。

兵士は正直に答えているではないか。「よく覚えていない」「よくわからない」そして「言いたくない」と。私だって、こういう取材には、これ以外に答えようがない。」


「一体この取材者は、どういう前提で兵士に質問を発しているのであろう。「殺しの手応え」などというものが戦場にあるはずはないではないか。ない、ないから戦争が恐ろしいのだ、なぜ、そんなことがわからないのか。

これはおそらく、戦争中から積み重ねられた虚報の山が、全く実態とは違う「虚構の戦場」を構成し、それが抜き難い先入観となっているからであろう。」


「そして「慮人日記」にはそれがない。(略)読者もしくは読者を代表する取材者との「なれ合い」は皆無である。そして「見」と「聞」を実に正確に書きわけている。


これは同氏が化学者で、その観察が必然的に科学的になったのだとも思えるが、おそらくはそれよりも、うすれ行く記憶をできうる限り正確に書き留めておこうとする著者の、いわば、邪心なき意図のたまものであろう。」


〇「予定稿」でものを見る、ということは私自身もあると感じます。人は見たいものを見、聞きたいことを聞き、記憶していたいことを記憶している…そうなってしまうのが、普通なのでしょう。

でも、だからこそ、そのようなことはある、と訴える、この山本氏のような人の存在が、大事なのだと思います。

私自身のことになりますが、実は、最近、依然少し触れた「日の名残り」の著者、イシグロ氏の「白熱教室」(NHK)の録画を見ました。その中で、イシグロ氏は、あの主人公に重ねた二つの「メタファー」について、説明しておられました。

一つは、自分が時代遅れだということが受け入れられず、誇りを守るためにあえてその虚構の中に留まる人間というメタファー。

もう一つは、完璧な仕事を成し遂げるということに自分のすべてをかけ、そのことに誇りを持ってはいるけれど、その実、その仕事が社会の中でどのような役割を果たすことになっているのかについては、全く見ようとしないし、関心を持つこともしようとしない人間というメタファー。(いわゆる、盲目的にナチスに協力したアイヒマン的な)


私は、あの映画をそのように見たことはありませんでした。
私は、見たいものをあの映画の中に見て、ひとりその物語を喜んでいた…
そういうことは、あるのだ、と改めて思いました。

私は、小説は読んだことはないのですが、でも、そのような問題を提示しているイシグロ氏に、共感を持ちました。いつか日の名残りを読んでみたいと思いました。