「彼(Oさん)は緒戦当時、英語が上手なため徴用され、米英オランダの民間人を収容する収容所に勤務させられた。そこも似たような状態であり、着のみ着のままの人が、ほぼ同じように柵内で生活し、彼らの好むままに秩序をつくらせた一種の自治であった。
そしてその状況は、今目の前で展開されているこの収容所の秩序とは、余りにも違い過ぎていた。彼らは、自己の伝統的文化様式通りの秩序をつくり、各人の「思想」すなわち自己規定でそれを支え、秩序整然としていたのだから_。
そしてその後の状態も正に同じであった。Oさんは、この時も嘆いていった。米英オランダ人の収容所に対して、日本軍が、こういう処置を取らねばならなかった事例はなかった、と。
小松氏が記しているように、日本軍を支えていたすべての秩序は、文化にも思想にも根ざさないメッキであり、付け焼刃であった。そして将校すなわち高等教育を受けた者ほどメッキがひどく、従ってそれがはげれば惨憺たる状態であった。」
「私は、この区画から、毎日、設営工場に出勤しており、そこで、捕虜の中から選抜された最も優秀な家具職人や建具職人と過ごしていたので、小松氏が、兵隊の収容所の方がはるかに立派だし、居心地もよい、と書かれているのが良くわかる。
ここの方が、何ら虚飾のない、伝統的文化に基づく一つの秩序すなわち文化があった。特に職人は立派であり、彼らはその技術においてアメリカ人よりはるかにすぐれ、従って何の劣等感もなく、また完全に放置しておいても、すぐに自ら職人的な秩序を作り出していった。
従って暴力的秩序などは皆無であり、そしてそういう場所には、彼らは絶対に入ってこようとはしなかった。」
「なぜ、暴力があれば秩序があり、暴力がなくなれば秩序がなくなったのであろう。
理由は、一言で言えば「文化の確立」なく、「思想的徹底」のないためであったが、もっと恐ろしいことは、人々がそれを意識しないだけでなく、学歴と社会的階層だけで、いわれなきプライドをもっていたことであった。(略)
しかし、各人は、自らの主張に基づく行動を自らはとらなかった。そして自らの行動の基準は小松氏の記す「人間の本性」そのままであった。そのくせ、それを認めて、自省しようとせず、指摘されれば、うつろなプライドを傷つけられて、ただ怒る。」