読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

個人的な人間観

〇 山本七平著 「日本はなぜ敗れるのか」 を読み、米英オランダの捕虜たちは、
日本人と同じような境遇にありながら、自分たちなりの秩序をつくるのに反し、
日本人捕虜たちの集団は、ほぼ例外なく暴力による秩序になってしまった、という話を知りました。

そのことと関係あるのかないのか、わかりませんが、私の中に昔あった人間観が、どれほど、自分自身を追い詰め、逆に野放したか、自分のことを振り返ってみたいと思います。

「禅」の影響でも「仏教」の影響でもないと思います。ただ、いつのころからか、私の中には、人間も自然の中で育まれている動物なので、ただ自然にしているだけで、十分賢く、十分様々な能力を持っているはず、という漠然とした感覚のようなものがありました。

逆に言えば、自然にしていて、出来ない人間は、出来の悪い価値のない人間、というような感覚もありました。

だれに教えられたわけでもないのに、私の中にはそんな感覚がありました。

そんなわけで、思春期に、やたら人の目が気になり、人中が嫌で、人前で話も出来ず、それでいて、あの「地下室の手記」(ドストエフスキー)の主人公の様に、グロテスクな自意識ばかりが強くなる自分の醜さにほとほと疲れてしまいました。

自然のまま、自然のまま、と思っているのに、不自然な自分の表情や立ち居振る舞いも、自分で自分が許せなくなります。

その時期、私は、とことん追い詰められました。

私を助けてくれたのは、多分、聖書の中の「義人はいない、一人もいない」とか「私が来たのは、義人のためではなく、罪人のため」というような、本来、人間はそんなにきれいなものじゃない、という考え方だったと思います。

本来、きれいなもの、存在するだけで充分良いもの、という「思想」は、そのきれいさや素敵さを持続出来ている人には、素晴らしい思想かもしれません。

でも、ふと気がつくと自分の家は貧乏で、顔も醜く、性格も陰険で、能力も人並み以下、となるとあとは、どうすればよいのでしょう…

生きてる意味などない、と思いました。

でも、そんな状態だった私でも、「死ぬ」というのは、これ以上ないほど「実際的なこと」です。

頭でどれほどあれこれ悩んでも、それらは結局頭の中だけの「空想の世界」でしかない、ということに長い時間をかけて、やっと気づきます。

私は多分、ここで「実際的なこと」と「頭の中だけのこと」の違いを骨身に染みて分かったのだと思います。

だから、この「日本はなぜ敗れるのか」の中で、職業軍人=将校たちの区画が一番酷かった、という理由をそのことと関連付けて、想像しました。

職業軍人は、恐らく「指揮や訓示」をする人で、小松氏も書いていたように、生活力は零でしょう。

しかも、その「指揮・訓示」も頭の中のただの言葉、
ヤスパースの話の中に出てきた、「職業的哲学者」と同じようななんら実際的な裏付けのない言葉だけでしかないものなのでしょう。

一方、職人や一般の兵隊は、日々、何かを作ったり、畑仕事をしたりと、
実際的な事柄に関わって生きてきています。
何かを作る、というのは、本当に本当に細かなあれこれの失敗の積み重ねの上に出来上がるもので、言葉通り、頭で考えているとおりになど行かない事ばかりです。

自分は何度も間違える人間だ、人も出来なくて当たり前だ、ということが骨身にしみてわかっている人たちです。

それでも、根気よく粘り強く互いにやって行こう…
これが、日々の生活の中で実践されている人たちで、

私は、ここに違いがあるのではないかなぁ、と思いました。


また、「自然のままに」で、自分が野放しになった経験も書いておきます。
これは、子育てに関してです。

「義人はいない」「自分は罪人」ということで
最初から立派な子育てが出来るとは思っていませんでした。

でも、子供は自然に育つもの、と思っていました。

「自然のままの親の感情をしっかり伝えて」、
子供に関わることが良いのだ、という気持ちでした。

ダメなことをしたときは、しっかり叱らなきゃ。
結果として、叱ってばかリいる親でした。

子供に対して私は絶対的な「権力」を持っています。
誰かに対してこれほどの「権力」を持ったことなど、
私自身の人生の中に、今まで一度もありませんでした。

その力にまかせて、やりたい放題、怒鳴りまくれます。

この年齢の子供はどういう未熟さをもっていて、
その時は、どうその未熟さを受け止めるのが、良いのか、

そんなことは、何も知りませんでした。

ダメなことはダメ、と自然に任せて言っているつもりで、
結局、自分の中のいろいろなものの、はけ口にしていました。


未熟な親でした。
今思い出しても、本当に子どもに育ててもらったようなものです。

だからやっぱり、実際の人間を知ることが必要だし、その上で、「訓練」とか「練習」は必要なのだと思います。

司馬遼太郎が、やさしさは本能ではない、訓練が必要だ、といった言葉は、
本当に大事な言葉だと思います。

こちらのサイトにあったので、紹介させてもらいます。