読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「彼としては、アメリカ人にとって理解しがたいと思われるそのような講義にどうして多くの人が集まるのかと不思議に思い、学生たちに問いただしてみると、彼らのほとんとが、LSDマリファナの経験をもち、その経験を媒介として講義の内容が理解され、興味も感じるのだということであった。」



ユングの心理学は、近代における合理主義や物質的な進歩主義に対して、強い疑問を投げかける性質をもっていた。そのために、ヨーロッパにおいてはともかく、アメリカにおいてはほとんど受け入れられなかったであるが、最近になって前述したようなことから、アメリカにおいても高く評価されるようになり、その理論のもつ意義が再認識されようとしているのである。」



「しかし、不可知なものを信じて、それに身を捧げようとするときに味わう畏れの感情こそ、現代人がほとんど忘れ去ってしまったものではなかったろうか。」



「このアメリカ女性が体験した畏怖の感情は、この女性(現代人一般にとっても)の自我の一面性を強烈に補償するものであったといえる。」



「ここに、男性原理は活動性、抽象性、厳しさ、訓練、情に動かされない強さなどを意味するのに対して、

女性原理は、受け入れ、控えめで服従的、感情的で、甘さ、弱さなどを意味する。この二つの原理の平衡が、うまくとれているとき、人は統合的な人格をもつことができる。」



「ホイットモントは、ここで、音楽や踊りの神、アポロやディオニソスを想起する。ギリシア時代におけるディオニソス教の信徒たちは、歌と踊りとによって人間の本能的な欲望を統合するための祭儀を行なったという。」



「人間の心の底にある獣性を、儀式によって人間的なものへと手なずける神がディオニソスであった。

しかし、キリスト教が興るや、天なる父の強い力は、人間の心の中の動物性、肉体や情欲を抑えつけ、ディオニソスの神は、ひづめと角をもつ悪魔の姿へと変身し、下落していった。」



ユングはその後、患者の治療をする際に、多くの患者が彼の描いたのと似たような図形を夢や幻覚として見たり、彼と同じく絵に描いたりすることを見いだし、非常に興味深く感じていた。(略)


すなわち、彼の描いたのと同様の図形が、古くから東洋の宗教においては、マンダラ図形として存在していることを知ったのである。


ユングはその後、西洋人の患者の描いたマンダラを多く発表しているが、このように、東洋、西洋の区別なく同様のイメージが無意識内から産出されることに気づき、彼は普遍的無意識の概念をたてたのである。」



「この点について、ユング神経症というのは、自分の発展の可能性に気づかなかったり、その可能性を抑圧したりしている場合に生じるのであり、生きる意味を悟り、自分の発展の可能性を開花せしめることこそ、治療の本質であると強調しているのである。


〇 生きる意味に苦しみ鬱的になっていた時、私も抗うつ剤のお世話になりました。
十代のころです。でも、あの頃は今と違って薬の性能があまり良くなかったのか、まるで効かない、と思いました。飲んでも飲まなくても、同じ苦しみで、必要なのは、薬ではない、と私は思いました。


それで、聖書、キリスト教、と頼るのですが、一応仏教の方が「神」などというどう考えても信じられないものを持ちだしていない分、信じられそうな気がして、仏教の「般若心経」「正法眼蔵」などもかじろうとしました。
むずかしくて、正法現蔵は読めませんでしたが。

この時点では、仏教、キリスト教どちらでも良かったのです。生きる意味が知りたかったのです。

でも、仏教には、すぐにとりついてすがれる、場所、チャンスのようなものがありませんでした。

キリスト教には、毎週日曜日に必ず礼拝があり、そこへ行くと、誰かが何かを教えてくれました。

それで、とっつきやすい、キリスト教に行きました。
般若心経より、聖書の方が読みやすく、わかりやすいような気がした、ということもありました。

(ただ、「騙される」ことへの恐怖はありましたから、新興宗教に行くつもりはありませんでした。)

そして、私なりにではありますが、生きる意味をつかまえました。
簡単に言えば、あの「はてしない物語」にあったように、

「愛することができる人になりたい」ということだったような気がします。

「今頃、バスチアンにはわかった。世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局のところたった一つ、愛することができるという悦びなのだと。
愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだ。

あとになって、バスチアンがまた自分の世界にもどってからずっと時がたち、やがて年老いてからも、この悦びはもう消え去ってしまうことはなかった。
障害のうちの最も困難な時期にさえ、かれにはこの心の悦びがあり、それがかれをほほえませ、まわりの人々を慰めた。」


何を言いたいかというと、ここにある、「生きる意味を悟り、自分の発展の可能性を開花せしめることこそ、治療の本質である」ということが、私にとっても、苦しみから脱出する道だった、ということを言いたくて、長々と書きました。

抗うつ剤ではダメだった。生きる意味を見つけることで、脱出できる苦しみがあった、というのが、私の体験です。

そして、何よりも良かったのは、それ以降、何度か同じ苦しみは来るのですが、耐えて立ち上がる動機が出来たということです。

ここで、バスチアンがいうように、

「年老いてからも、この悦びはもう消え去ってしまうことはなかった。
生涯のうちの最も困難な時期にさえ、かれにはこの心の悦びがあり…」

なのです。


ユング自身が、精神病とまがうほどの体験をもったことについて、少し触れたが、そのような体験にたじろぐことなく、それを理解し、理論体系の中に収めようと努力し続けることによって、彼の心理学が成立したといっても過言ではないのである。」

カール・グスタフユングは、1875年スイスのケルビルにおいて、ルーテル派教会の牧師の子どもとして生まれた。」



「ここで、彼の性質の一端を物語る事実をひとつ紹介する。それは、彼自身は、ユング研究所(1950年設立)をつくることに最後まで反対であったことである。」




「このことは、ユングの心理学があまりひろまらなかった大きい原因であると思うが、ユング自身としては、少数の真の理解者を得ることのほうがはるかに好ましいことであったのだろう。」


「1961年6月に、まったく眠るように、自己実現の道を歩み終えて逝ったのである。」