読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  10 歴史に介入する神

「O 神が天地創造をして、そのあと、最後の審判の時まで出て来ないのであれば、わかります。ところが、キリスト教の場合には、神そのものが歴史の中に入ってきて、被造物のように振舞っている。


イスラム教の場合は、そういう不可解なことが出来るだけ起きないように、工夫している気がします。神はムハンマドにしか関わらないし、その場合だって、かなり間接的ですし、関りと言ってもクルアーンを伝えるだけです。(略)


でも、キリスト教イエス・キリストは、特定の歴史の時間の特定の場所に、堂々と出てきて、喋ったり、ある人の病気を治すなどの恩恵を施したりしている。考えようによっては、これはすごく不公平ではありませんか。(略)


H キリスト教徒は世界を、「イエス以前」「イエス以後」で分ける。西暦は、イエス・キリストの生誕を基準にする、キリスト教暦です。


じゃ、ユダヤ教はどこで分けると思う?ユダヤ教にも「旧い世界」「新しい世界」という考え方がある。(略)


H そう、「洪水前」と「洪水後」。そこで一回、神が直接介入しているでしょう。(略)


ノアの前、なぜ人間が神に背くようになったかというと、預言者もいないし、律法もなくて、言わば野放しの状態だった。そこで神は、介入を強めることにして、モーセの律法を下したのです。(略)


ここで「罪」という概念が、明示的に生まれた。ノアの前は律法なしの罪だったのが、今度は、律法に照らしての、ルール違反なんですね。
エスの出現はこの延長上なんです。


キリスト教からすると、まずノアの洪水(神の直接行動による処罰)があって、それから、契約(モーセの律法)によって人間に規範を与えた。でも、ルール通りに出来ない罪をどうするかという問題になり、それが無視できないまでになった時、イエス・キリストが現れた。(略)


H 裁きのあと、神の国が出来上がる。でも、誰が入れます?誰も入れないでしょう。だって、モーセの律法に完璧に従えた人なんていないから。(略)


O そうですね。その場合は全員救われないというのが多分正解でしょうね。

H 神はそれをしたくなかったんです。
それで、別な計画(シナリオ)を用意した。それによると、最初にイエスが、ただの人間(人の子)として現れて、人間の罪を背負って惨めに死んでしまう。(略)


イエス・キリストは人間として死刑になったので、罰はもう済んだと言える。どちらになるかは、イエス・キリストの裁量です。イエス・キリストが再臨する「主の日」に、最後の審判を行なう。こういうワンクッションを置いた。これが、キリスト教の考える神の計画です。(略)


神は、なるべく多くの人間を救おうとしている。このままだと全員救われないので、ルールを変えてまで、人間を救おうとしている。そういうメッセージを人間に伝えた。


ところが、このメッセージを受け取っても、それが救いのメッセージだと思う人と、思わない人がいる。思う人は、信仰を持っていて、思わない人は、信仰を持っていないわけだな。


O 僕は信仰を持っていないグループに入りそうな感じがしますけど(笑)、いろいろ突っ込みをいれたくなります。(略)


どうせ許すんなら、直接、全員を「赦してやる」と宣言すればいいのに、どうして、自分の子を使って、あんなすさまじいパフォーマンスを演じさせなければならなかったのか。これは、的外れな疑問ですか?


H それぐらいなら、アダムとイブをなぜ、エデンの園から追放したのか。

O 全くその通りです!

H 追放した以上は、人間が自分でどこまでやれるか、見ているんじゃないのかな。
(略)
キリスト教の立場から言うと、この段階は、いく通りもの意味で問題があった。(略)よく考えてみれば、律法は、人々が努力して神に従うための手段のはずで、律法が目的になったらおかしい。


だから神は、この律法(契約)を破棄する自由がある。と言っても、契約を完全に破棄すると、ノアの洪水以前に戻ってしまうから、契約を更改することにし、新しいゲームを始めた。


新しいゲームは、律法のゲームではなくて、愛のゲームです。
愛は、律法と違って、無条件にチャンスを与える。愛は、呼びかけ。人間は、神のメッセージをわかって、それに応答しなければならない。


イエス・キリストが現れてから最後の審判迄の時期、神は、その呼びかけに人間がどう応答するか、待っているんですね。


ヤハウェを信じる人々は、ユダヤ民族から、人類全体に拡大しつつある。こういうシナリオが進行中なわけです。」