読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史  上 <想像上の秩序>

(つづき)

ハンムラビ法典は、バビロニアの社会秩序が神々によって定められた普遍的で永遠の正義の原理に根差していると主張する。このヒエラルキーの原理は際立って重要だ。この法典によれば、人々は二つの性と三つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)に分けられている。


それぞれの性と階級の成員の価値はみな違う。女性の一般自由人の命は銀30シュケルに、女奴隷の命は銀20シュケルに相当するのに対して、男性の一般自由人の目は銀60シュケルの価値を持つ。


この法典は、家族の中にも厳密なヒエラルキーを定めている。それによれば、子供は独立した人間ではなく、親の財産だった。したがって、高位の男性が別の高位の男性の娘を殺したら、罰として殺害者の娘が殺される。殺人者は無傷のまま、無実の娘が殺されるというのは、私たちには奇妙に感じられるかもしれないが、ハンムラビとバビロニア人たちには、これは完璧に公正に思えた。


ハンムラビ法典は、王の臣民がみなヒエラルキーの中の自分の位置を受け容れ、それに即して行動すれば、帝国の100万の住民が効果的に協力できるという前提に基づいていた。効果的に協力できれば、全員分の食糧を生産し、それを効率的に分配し、敵から帝国を守り、領土を拡大してさらなる富と安全を確保できるというわけだ。


ハンムラビの死の約3500年後、北アメリカにあった13のイギリス植民地の住民が、イギリス王に不当な扱いを受けていると感じた。彼らの代表がフィラデルフィアの町に集まり、1776年7月4日、これらの植民地はその住民がもはやイギリス国王の臣民ではないと宣言した。


彼らの独立宣言は、普遍的で永遠の正義の原理を謳った。それらの原理は、ハンムラビのものと同様、神の力が発端となっていた。ただし、アメリカの髪によって定められた最も重要な原理は、バビロンの神々によって定められた原理とはいくぶん異なっていた。アメリカ合衆国の独立宣言には、こうある。


我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる。


アメリカの礎となるこの文書は、ハンムラビ法典と同じで、もし人間がこの 文書に定められた神聖な原理に即して行動すれば、膨大な数の人民が効果的に協力して、公正で繁栄する社会で安全かつ平和に暮らせることを約束している。ハンムラビ法典と用、アメリカの独立宣言も書かれた時と場所だけに限られた文書ではなく、後に続く世代にも受受け容れ。られたアメリカの児童生徒は200年以上にわたって、この文書を書き写し、そらんじてきた。


これら二つの文書は私たちに明らかな矛盾を突きつける。ハンムラビ法典アメリカの独立宣言はともに、普遍的で永遠の正義の原理を略述するとしているものの、アメリカ人によれば、すべての人は平等なのに対して、バビロニア人によれば、人々は明らかに同等ではないことになる。


もちろん、アメリカ人は自分が正しく、ハンムラビが間違っているというだろう。当然ながらハンムラビは、自分が正しくアメリカ人が間違っていると言い返すだろう。じつは、両者はともに間違っている。ハンムラビもアメリカの建国の父たちも、現実は平等あるいはヒエラルキーのような普遍的で永遠の正義の原理に支配されていると想像した。


だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな想像や、彼らが創作して語り合う神話の中だけなのだ。これらの原理には、何ら客観的な正当性はない。


私たちにとって、「上層自由人」と「一般自由人」という人々の分割が想像上の産物であることを受け容れるのはたやすい。とはいえ、あらゆる人間が平等であるという考え方も、やはり神話だ。いったいどういう意味合いにおいて、あらゆる人間は互いに同等なのだろう?


人間の想像の中を除けば、いったいどこに、私たちが真に平等であるという客観的現実がわずかでもあるだろうか?あらゆる人間が生物学的に同等なのか?先ほど挙げた、アメリカの独立宣言で最も有名な以下の文を、生物学的な言葉で言い換えられるか、試してみよう。


我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる。


生物学という科学によれば、人々は「造られ」たわけではないことになる。人々は進化したのだ。そして、彼らは間違っても「平等に」なるようには進化しなかった。平等という考えは、天地創造という考えと分かち難く結びついている。アメリカ人は平等という考えをキリスト教から得た。


キリスト教は、誰もが神によって造られた魂を持っており、あらゆる魂は神の前で平等であるとする。だが、もし私たちが神や天地創造や魂についてのキリスト教の神話を信じていなければ、あらゆる人が「平等」であるとは、何を意味するのか?進化は平等ではなく差異に基づいている。誰もがいくぶん異なる遺伝子コードを持っており、誕生の瞬間から異なる環境の影響にさらされている。その結果、異なる生存の可能性を伴う。異なる特性が発達する。従って、「平等に造られ」は「異なった形で進化し」と言い換えるべきだ。



生物学という科学によれば、人々はけっして造られなかったばかりでなく、彼らに何であれ「与え」る「造物主」も存在しない。行き当たりばったりの進化の過程があるだけで、何の目的もなく、それが個々の人の誕生につながる。「造物主によって与えられる」はたんに「生まれる」とすべきだ。


また、生物学には権利などというものもない。あるのは器官や能力や特徴だけだ。鳥は飛ぶ権利があるからではなく翼があるから飛ぶ。そしてこれらの器官や能力や特徴が「奪うことのできない」というのも正しくない。その多くがたえず突然変異を起こしており、時と共に完全に失われるかも知れない。ダチョウは鳥だが、飛ぶ能力を失った。したがって、「奪うことのできない権利」は「変わりやすい特徴」とするべきだ。


それから、人類で進化した特徴は何だろう?「生命」は間違いなく含まれる。だが、「自由」は?生物学には自由などというものはない。平等や権利や有限責任会社とまったく同じで、自由は人間が創作したもので、人間の想像の中にしか存在しない。生物学の視点に立つと、民主的な社会の人間は自由で、独裁国の人間は自由がないと言うのは無意味だ。


それでは「幸福」はどうだろう?これまでのところ生物学の研究は、幸福の明確な定義や、幸福を客観的に計測する方法を生み出せずにいる。ほとんどの生物学的研究は、快感の存在しか認めていない。快感のほうが定義も計測も簡単だからだ。そこで、「生命、自由、幸福の追求」は、「生命と、快感の追求」に書き換えるべきだ。


というわけで、アメリカ独立宣言の例の一文を生物学の言葉に翻訳すると、以下のようになる。


我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と快感の追求が含まれる。


平等と人権の擁護者は、このような論法には憤慨するかもしれない。そしておそらく、こんな風に応じるだろう。「人々が生物学的に同等でないこと等承知している!だが、私たちはみな本質において平等であると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。私は、それに反論する気はさらさらない。それこそまさに、私の言う「想像上の秩序」に他ならないからだ。


私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じれば効果的に協力して、より良い社会を作り出せるからだ。「想像上の秩序」は邪悪な陰謀や無用の幻想ではない。むしろ、多数の人間が効果的に協力するための唯一の方法なのだ。


ただし、覚えておいてほしいのだが、ハンムラビなら、ヒエラルキーについて自分の原理を、同じロジックを使って擁護したかもしれない。「上層自由人、一般自由人、奴隷は本来異なる種類の人間ではないことを、私は承知している。だが、異なっていると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。」


アメリカ独立宣言にある「平等に造られており」という言葉は、そう信ずれば皆で協力し繁栄する社会を築けるから、というこのハラリ氏の主張に少し異議があります。

「平等」というのは、存在の「平等」さだと思うのです。
精神の生活 下」にハイデガーの言葉が引用されていました。

「「生成の無垢」と「永劫回帰」は精神の能力から引き出したものではない。その根拠にあるのは、我々が世界に「投げ出され」(ハイデガー)ており、誰も我々がここにいたいのか、今ある状態を願っているのかと尋ねたことのないという議論の余地のない事実である。(精神の生活より)」

「この世界に投げ出されて」いない人間はいません。誰もがみな、同じように(平等に)投げ出されています。明日をも知れぬ運命の中で生きています。

私はそれは客観的事実だと思います。

ただ、そのことはなかなか気づきにくいし、一言で説明しにくいので、このハラリ氏は、わかりやすくこんな風に言ったのかな?と思ったのですが。

<想像上の秩序>については、132ページから143ページまで、全文を書き写しました。

下巻のあとがきに、「人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。」

という言葉がありました。私たち人間は<想像上の秩序>で、協力ネットワークを築き、やってきた。私たちはどんな世界を願っているのか。目的はなんなのか。
そこをはっきりさせなければ、地球の生態系を破滅させ、自らも滅びるしかない、と言っているのだと思いました。