読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「正義」を考える  生きづらさと向き合う社会学

「1 功利主義_「最大多数」か「最大幸福」か
<幸福の足し算>
つまり、正義に適った社会、道徳的に望ましい社会というのは、できるだけ大勢の社会のメンバーが、できるだけ大きな幸せや快楽を実現できる社会ではないだろうか。われわれは普通そう思います。」



功利主義の前提に立つ限りにおいて、われわれは、普遍的な受容可能性のない社会状態を正当化せざるを得なくなります。述べてきたように、功利主義は、ある種の犠牲を正当化します。」


「2 リベラリズム_普遍性こそ正義の条件
<正義の規準としての自由>
では、カントにとっては、何を基準にすえば、普遍的な正義の理論となり得るか。それは、個々の人間は、好みや利害等を含め、それらをすべて選択することができるということです。つまり、人間はみな自由だということ、このことこそが、正義を構築する絶対の規準になります。」


「難点は、結局、徹底した普遍化の逆説、完全な普遍性の不可能性という形で現れます。」



「3 コミュニタリアン_共同体こそ正義の条件
<人はいかにしてコミュニタリアンとなるか>
どういう他者が優先的に重視されるかというと、抽象的にはこういうことです。まず、自分と他者の間に、自分が選んだわけではないけれども、伝統的あるいは歴史的な与件とも見なし得るつながりがある。

しかも、そのつながりは、私のアイデンティティにとって不可欠な意味を持っている。他者との間にこのような関係があるとき、そのような他者にたいしては、他の他者たちに対してよりも優先的な責任を負うと考えても良いのではないか。これがコミュニタリアンの考えです。

コミュニタリアンは、そのような他者たちとの間で形成する連帯が、つまり与件としての共同体が、道徳的な価値を有すると見なします。
サンデルもまた、コミュニタリアンであると自認しています。」


「簡単に言うと、コミュニタリアンは、多文化主義相対主義に親和性が高い。われわれの善の観念からは悪に見えるが、彼らにとってはそれが善いのだ、ということになります。「それぞれだね」というしかないようなことになる。つまり、コミュニタリアンからすると、他の共同体が関与している著しい人権侵害、例えば、ひどい男女差別とか人種差別でも、座視するしかありません。

それを批判したり、やめさせたりすると、「われわれの共通善」の強制ということになってしまいます。しかし、これは、やはり、おかしいのではないでしょうか。コミュニタリアンには、何かが足りないのではないでしょうか。」


「こう考えると、コミュニタリアンの理論は、いろいろな含みを持っているとはいえ、率直な言い方をすれば、時代遅れな思想だと結論せざるを得ない。なぜか?
物語の困難、これこそが、冒頭から確認してきた現代の特徴だからです。


現代社会の中の個々の主体は、自らが引き受けられる、自らがコミットし得るような物語を喪失しつつある。物語は、もはや道徳や正義の根拠を提供しない。誰もが、自然とコミットしてしまうような物語があるということを前提にしているコミュニタリアンの議論は、社会構想のための原理とはなり得ない。コミュニタリアンが前提にしていること、そのことがもはや成り立たず、機能していない、それが我々の困難だからです。


そうすると、功利主義リベラリズム、そしてコミュニタリアンにまでやってきましたが、そのコミュニタリアンもダメだった。そこにも重大な欠陥がある。」


「4 アリストテレス主義_幸福こそ正義の目的
アリストテレスの理論のどこに、「現代社会」とのズレがあるのでしょうか?どのズレが、効いているのでしょうか?

<アクラシア_わかっているけどやめられない>
自分にとって何が善いかということはわかっているのに、それに反する別の行為をしてしまうこと、これがアクラシアです。」


「彼らが当然のように思っている世界観が、われわれの社会から見るとまったく成り立っていない。われわれの社会とギリシアの社会は何かが根本的に違う。(略)


そのことを探ることで、アリストテレスにとって_したがってそれを自明に引き継ぐコミュニタリアンにとって_何が盲点になっていたかが明らかになって来ます。」