読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(私物命令・気魄という名の演技)

「事実、参謀が口にする、想像に絶する非常識・非現実的な言葉が、単なる放言なのか指示なのか口達命令なのか判断がつかないといったケースは、少しも珍しくなかった。


ではその方言的”私物命令”の背後にあったものは何であろう。いったい何のためにロハス処刑の私物命令を出す必要があったのか、また何が故に、捕虜を全員射殺せよとの”ニセ大本営命令”が出たり、その参謀が”全部殺せ”と前線を督励して歩いたあとを副官がいちいち取消して廻るといった騒ぎまで起こるのか。


陸軍刑法第三条にははっきり「擅権罪」が規定され、越権行為は処罰できることになっている。第一、参謀には指揮権・命令権はないはず、そしてこの権限こそ軍人が神がかり的にその独立と神聖不可侵を主張した「統帥権」そのものでなかったのか。何かあれば統帥権千犯と外部に対していきり立つ軍人が、その内部においては、この権限を少しも明確に行使していなかった。このことは、「私物命令」という言葉の存在自体が証明している。




そのくせ巻頭に勅語を掲げた「作戦要務令」には次のように明確な命令への規定があった。「軍隊ノ指揮ハ統帥ノ大権ニ根源ス、各級指揮官ハ厳粛ニ之ヲ承行シ……」「命令ハ各級指揮官之ヲ作為シ……」と。


指揮官以外は指揮できず、従って命令は出せないのである。これらから見れば、辻参謀の行為も、神保中佐への「私物命令」発令者の行為も、最も厳格に処罰されて然るべき行為だったはずである。


しかし、左遷という実質的処分を受けたのは逆に神保中佐であっても、「私物命令」の発令者ではなかった。それだけでない。その多くは戦犯に問われず、戦後も何の処分も追及もうけず、辻政信のように、その行方不明まで、戦前と同じような権威と社会的地位を保持しつづけている。


あのままで行けば辻内閣ができても不思議はない。何ということであろう。何がこれを起こすのか?いやいったい、こういう人たちが常に保持し続け得た”力”の謎は何であろうか。それは一言でいえば、ある種の虚構の世界に人々を導き入れ、それを現実だと信じ込ます不思議な演出力である。そしてその演出力を可能にしているものが二つあった。



その一つ、演技力の基礎となっているものを探せば、それは”気魄”という奇妙な言葉である。この言葉は今では完全に忘れられているが、かつての陸軍の中では、その人を評価する最も大きな基準であった。そして一下級将校であれ一兵士であれ、「気魄がないッ」と言われれば、それだけで、その行為も意見もすべて否定さるべき対象で、「あいつは気魄がないヤツだ」と評価されれば、それは無価値・無能な人間の意味であった。



では一体この「気魄」とは何んなのか。広辞苑の定義は「何ものにも屈せず立ち向かっていく強い精神力」である。これは、帝国陸軍が絶対視した「精神力」なるものの定義の重要な一項目でもあったであろう。だが、実際にはこの「気魄」も一つの類型化された空疎な表現形式になっていた。


どんなにやる気がなくても、その兵士が、全身に緊張感をみなぎらせ、静脈を浮き立たせて大声を出して、”機械人形”のような節度あるキビキビした動作をし、芝居ががった大仰な軍人的ジェスチュアをしていれば、それが「気魄」のある証拠とされた。



従ってこれを巧みに上官の前で演じることが、兵士が言う「軍隊は要領だよ」という言葉の内容の大部分をしめていた。内心で何を考えていようと、陰で舌を出していようと、この「演技・演出」が巧みなら、それですべてが通る社会だった。戦場に送られまいとして、この演技力を百パーセント発揮して、皇居警備の衛兵要員として連隊に残った一兵士を私は知っている。その彼は陰では常に「野戦にやられるくらいなら逃亡する」と言っていた。」


(つづく)