読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

魔女狩り

私たちは科学を、世俗主義と寛容の価値観と結びつけることが多い。それならば、近代前期のヨーロッパほど科学革命発祥の地として意外な場所はないだろう。コロンブスコペルニクスニュートンの時代のヨーロッパは、宗教的狂信者が最も集中しており、寛容の水準がいちばん低かった。

 

 

科学革命を担った名だたる人々は、ユダヤ教徒イスラム教徒を排除し、異端者を大量に火あぶりにし、猫を可愛がる高齢の女性はみな魔女と見なし、月が満ちるたびに新たな宗教戦争を始める社会に暮らしていた。

一六〇〇年頃にカイロかイスタンブールに旅したら、そこは多文化で寛容な大都市で、スンニ派イスラム教徒やシーア派イスラム教徒、東方正教会キリスト教徒、カトリック教徒、アルメニア教会のキリスト教徒、コプト教徒、ユダヤ教徒、さらには少数のヒンドゥー教徒までもが隣り合って比較的仲良く暮らしていたはずだ。

 

 

 

彼らもそれなりに意見が対立したり暴動を起こしたりはしたものの、そして、オスマン帝国が宗教を理由に人々を日常的に差別してはいたものの、そこはヨーロッパと比べれば偏見のない楽園だった。海を渡って当時のパリやロンドンに行けば、そこには宗教的な過激主義が満ちあふれ、支配的な宗派に属している人しか住めなかった。

 

 

 

 

ロンドンではカトリック教徒が殺され、パリではプロテスタントが殺され、ユダヤ教徒はとうの昔に追い出されており、正気の人ならイスラム教徒を迎え入れること等夢にも思わなかった。それにもかかわらず、科学革命はカイロとイスタンブールではなくロンドンとパリで始まった。

 

 

 

近代と現代の歴史を科学と宗教の闘争として描くのが慣習になっている。理屈の上では、科学と宗教はともに何よりも真理に関心があり、異なる真理を擁護するので、必ず衝突する定めにある。ところが、じつは科学も宗教も真理はあまり気にしないので、簡単に妥協したり、共存したり、協力したりさえできる。

 

 

 

宗教は何をおいても秩序に関心がある。宗教は社会構造を創り出して維持することを目指す。科学は何をおいても力に関心がある。科学は、病気を治したり、戦争をしたり、食物を生産したりする力を、研究を通して獲得することを目指す。科学者と聖職者は、個人としては真理をおおいに重視するかもしれないが、科学と宗教は集団的な組織としては、真理よりも秩序と力を優先する。

 

 

したがって、両者は相性が良い。真理の断固とした探求は霊的な旅で、宗教や科学の主流の中にはめったに収まり切らない。

したがって近代と現代の歴史は、科学とある特定の宗教、すなわち人間至上主義との間の取り決めを形にするプロセスとして眺めた方が、はるかに正確だろう。

 

 

現代社会は人間至上主義の教義を信じており、その教義に疑問を呈するためにではなく、それを実行に移すために科学を利用する。二一世紀には人間至上主義の教義が純粋な科学理論に取って代わられることはなさそうだ。とはいえ、科学とン現至上主義を結び付ける契約が崩れ去り、まったく異なる種類の取り決め、すなわち、科学となんらかのポスト人間至上主義との取り決めに場所を譲る可能性が十分ある。

 

 

 

本書ではこれからの二章で、科学と人間至上主義との間で交わされた現代の契約の理解にもっぱら努めることにする。そしてその後、最後の第3部では、この契約が崩れかけている理由と、その後釜に座るかもしれない新しい取り決めを説明する。」

 

 

〇 ここで、「ホモ・デウス」上巻 は終わっています。

 

図書館で借りて読んだため、最初に下巻を読み、次に上巻を読んだのですが、

当然のことながら、やはり、上巻から読むべき本でした。

上巻にはこの本を書いた著者の意図が書かれていて、下巻はそれを具体的に示すための、材料が提示されていたのだと感じました。

 

下巻のメモをもう一度、振り返って読んでみたいと思います。

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「聖なる教義

 

実際には、倫理的な判断と事実に関する言明は、いつも簡単に区別できるわけではない。主教に歯、事実に関する言明を倫理的な判断に変え、深刻な混乱を生み、比較的単純な議論であってしかるべきだったものをわかりにくくする、根強い傾向がある。

 

 

 

たとえば、「神が聖書を書いた」という事実に関する言明は、「あなたは神が聖書を書いたと信じるべきである」という倫理的な命令に替わってしまうことがあまりに多い。事実に関するこの言明をたんに信じることが美徳となり、疑うことは恐ろしい罪となる。

 

 

逆に、倫理的な判断は、事実に関する言明を内に秘めていることが多い。擁護者たちが、そうした事実は疑いの余地がないまでに証明されていると考え、わざわざ言及しないからだ。たとえば、「人の命は神聖である」という倫理的な判断(科学には検証できないこと)は、「すべての人には不滅の魂がある」という事実に関する言明(科学的議論の対象になること)を覆い隠しているかも知れない。

 

 

 

同様に、アメリカの国家主義者が「アメリカという国は神聖だ」と宣言するときには、この一見すると倫理的な判断は、じつは、「アメリカは過去数世紀の道徳的進歩と科学的進歩の大半を先導してきた」という事実に関する言明に基づいている。

 

 

 

アメリカという国は神聖であるという主張を科学的に精査するのは不可能であるが、この判断に隠された言明をいったん明るみに出してしまえば、アメリカが道徳的大躍進と科学的大躍進と経済的大躍進の、不釣り合いなまでに多くを本当に引き起こしてきたのかどうかは、科学的に検証できるだろう。

 

 

 

そこから、サム・ハリスらの一部の哲学者は、人間の価値観の中には事実に関する言明がつねに隠されているので科学はつねに倫理的ジレンマを解決できると主張するようになった。人間はみな、苦しみを最小化し、幸福を最大化するという単一の至高の価値観を持っており、したがって倫理的な議論はすべて、幸福を最大化する最も効率的な方法にまつわる、事実に関する議論だとハリスは考えている。

 

 

 

イスラム原理主義者は幸せになる為に天国に行き着きたがり、自由主義者は人間の自由を増せば幸福を最大化できると信じており、ドイツの国家主義者はドイツ政府が世界の舵取りを任されればあらゆる人の境遇が改善するだろうと考えている。ハリスによれば、イスラム原理主義者と自由主義者国家主義者は、倫理的な意見の対立ではなく、彼らに共通する目標を実現する最善の方法をめぐって、事実に関する議論を戦わせているのだそうだ。

 

 

とはいえ、たとえハリスが正しく、あらゆる人が幸福を大切にするとしても、実際には、この見識を使って倫理にまつわる言い争いに決着をつけるのは至難の業だろう。なにしろ、幸福の科学的な定義も測定法もないからだ。三協ダムの事例をもう一度考えてほしい。

 

 

 

この事業の究極の目的が、世界をより幸せな場所にすることだと、仮に私たちが合意したとしても、安い電力を生み出す方が、伝統的な生活様式を守ったり、珍しいヨウスコウカワイルカを救ったりするよりも、全世界の幸福に貢献すると、どうして言えるだろうか?

 

 

 

意識の神秘を解明しないかぎり、私たちは幸福と苦しみの普遍的測定法を開発できないし、違う人どうしの幸福と苦しみを比較する方法もわからない。ましてや、異なる種の間での比較など論外だ。一〇億の中国人が安価な電力を享受するときに生み出される幸福は何単位なのか?

 

 

イルカの種が一つ絶滅するときに生じる苦難は何単位なのか?それどころか、そもそも幸福と苦難は足したり引いたりできる数理的なものなのか?アイスクリームを食べるのは楽しい。真の愛を見つけるのはもっと楽しい。だが、もしアイスクリームをたくさん食べれば、快感が積み重なって、真の愛がもたらす歓喜と肩を並べ得るだろうか?

 

 

 

したがって、科学は私たちが普段思っているよりも倫理的な議論にはるかに多く貢献できるとはいえ、少なくとも今のところは科学には越えられない一戦がある。何らかの宗教の導きがなければ、大規模な社会的秩序を維持するのは不可能だ。

 

 

大学や研究所でさえ、宗教的な後ろ楯を必要とする。宗教は科学研究の倫理的正当性を提供し、それと引き換えに、科学の方針と科学的発見の利用法に影響を与える。そのため、宗教的信仰を考慮にいれなければ、科学の歴史は理解できない。科学者がこの事実についてじっくり考えることは稀だが、ほかならぬ科学革命が始まったのは、教条主義的で不寛容で宗教的なことにかけては史上有数の社会においてだった。」

 

 

〇 私たちの国の宗教は何なのか?お葬式は仏教で、結婚式はキリスト教で、お正月には日本神道で…とよく言われてました。でも、今やそれもあやしくなっています。自分の人生には、意味があると考えずにはいられないのが人間で、そのために、宗教を生み出す、とここでも、言われています。

 

生きる意味…大昔、私がその答えを探した時、私たちの国の文化には、その答えがないと感じたことがあります。生きる意味について、考える習慣や文化が私たちにはない…と。

 

今は、むしろ、そんな大事なことは、大っぴらには口せず、心の奥で、ひっそりと考えているのだ、と感じます。「ない」のではない。ちゃんとみんなそれぞれに考えている。ただ、口にしないだけ。でも、そんなわかり難い「宗教」だと、若い私には、とても、理解できませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「神を偽造する

 

宗教が前よりよくわかったところで、宗教と科学の関係の考察に戻ることができる。この関係には、二つの極端な解釈がある。一方の見方では、科学と宗教は不倶戴天の敵同士で、近代史は科学の知識と宗教の迷信との死闘で形作られたことになる。

 

 

 

やがて科学の光明が宗教の暗闇を追い払い、世界はしだいに非宗教的かつ合理的になって、繁栄してきたというのだ。とはいえ、いくつかの科学的発見がたしかに宗教の教義を弱体化させているものの、これは必然的なことではない。(略)

 

 

 

さらに重要なのだが、科学は人間のための実用的な制度を創出するには、いつも宗教の助けを必要とする。科学者は世界がどう機能するかを研究するが、人間がどう行動するべきかを決めるための科学的手法はない。科学は人間が酸素なしでは生き延びられないことを教えてくれる。とはいえ、犯罪者を窒息させて処刑するのは許されるのだろうか?科学はそのような疑問にどう答えたらいいか知らない。宗教だけが、必要な指針を提供してくれる。(略)

 

 

 

あなたが三峡ダムについて個人的にどう思っていようと、ダムの建設は純粋に科学的な問題というよりも倫理的な問題だった。どんな 物理実験や経済モデルや数式をもってしても、厖大な電力とお金を生み出す方が、古い仏塔やヨウスコウカワイルカを救うよりも価値があるかどうかは決められない。したがって、中国は科学理論だけに基づいて機能することはできない。何かしらの宗教あるいはイデオロギーが必要なのだ。

 

 

 

逆の極論に走り、科学と宗教は完全に別個の領域であるという人もいる。科学は事実を研究し、宗教は価値観について語り、両者はけっして交わることがない。宗教は科学的な事実について語ることは何もなく、科学は宗教的な信念については口をつぐむべきだ。

 

 

 

人の命は神聖で、したがって妊娠中絶は罪であるとローマ教皇が信じているなら、生物学者は恐慌の主張が正しいとも間違っているとも証明できない。生物学者はそれぞれ一私人として教皇と議論を戦わせるのは自由だが、科学者としてはその争いに加わることはできない。

 

 

 

このアプローチは分別のあるもののように思えるかもしれないが、宗教を誤解している。たしかに科学は事実だけを扱うとは言え、宗教はけっして倫理的な判断を下すだけにとどまらない。何かしら事実に関する主張をしないかぎり、宗教は実用的な指針を一つとして提供できない。だから、そこで科学と衝突する可能性が高い。

 

 

 

多くの宗教の教義でとくに重要な部分は倫理的規範ではなく、むしろ事実に関する主張で、たとえば、「神は存在する」「魂はあの世で罪の報いを受ける」「聖書は人間でなく神によって書かれた」「ローマ教皇が間違うことはけっしてない」などだ。(略)

 

 

 

妊娠中絶を例に取ろう。敬虔なキリスト教徒はしばしば中絶に反対するが、多くの自由主義者は中絶を支持する。(略)なぜなら、教義の詳細を読むとわかるのだが、ローマ教皇は「けっして間違うことはなく」、十字軍に加わって遠征し、異教徒を火あぶりの刑にするよう教皇が信徒に命じたときにさえ、無批判に従うことをカトリック教は要求しているからだ。

 

 

このような実際的な指示は、倫理的な判断だけからは導き出せない。むしろそれは、倫理的な判断を事実に関する言明と融合させることから生じる。

哲学の天上界から降りてきて歴史の現実を眺めると、宗教の物語にはほぼ必ず次の三つの要素が含まれることがわかる。

 

 

1「人の命は神聖である」といった、倫理的な判断。

2「人の命は受精の瞬間に始まる」といった、事実に関する言明。

3 倫理的な判断を事実に関する言明と融合させることから生じる、「受精のわずか一日後でさえ、妊娠中絶は絶対に許すべきではない」といった、実際的な指針。

 

 

 

科学には、宗教が下す倫理的な判断を反証することも確証することもできない。だが、事実に関する宗教的な言明については、科学者にもたっぷり言い分がある。(略)

 

 

中世ヨーロッパの人々は、昔の皇帝の命令にはおおいに敬意を払っており、文書古いほどその権威が増すと考えていた。彼らはまた、王や皇帝は神の代理人だとも考えていた。コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国を異教徒の領域からキリスト教帝国に変えたので、とりわけ崇められていた。(略)

 

 

 

一四四〇年、カトリックの司祭で言語学の先駆者ロレンツォ・ヴァッラが科学的な研究を発表し、コンスタンティヌス帝の寄進状が偽造文書であることを証明した。ヴァッラはその文書の文体や文法や使われている語句を分析した。そして、この文書には四世紀のラテン語では知られていない単語が含まれており、コンスタンティヌス帝の死後およそ四〇〇年を経てから捏造された可能性が非常に高いことを実証した。(略)

 

 

 

今日、コンスタンティヌス帝の寄進状は八世紀のいずれかの時点に、教皇の下で捏造されたということで、歴史学者全員の意見が一致している。ヴァッラは古い皇帝の道徳的権威にけっして異議を唱えることはなかったものの、彼の科学的分析は、ヨーロッパ人は教皇に従うべきであるという実際的な指針の効力を間違いなく切り崩した。

 

 

 

 

二〇一三年一二月二〇日、ウガンダの議会は反同性愛法を可決した。同法は同性愛行為を犯罪化し、一部の行為は終身刑で罰することを定めていた。(略)かれらは証拠として「レビ記」第18章22節(「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである」)と、「レビ記」第20章13節(「女と寝るように男と寝るものは、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる」)を引用する。過去何世紀にもわたって、これと同じ宗教的な物語のせいで、世界中の無数の人がひどく苦しめられてきた。(略)

 

 

 

今や私たちは科学的手法を総動員して、いつ、誰が聖書を書いたか断定できる。科学者たちは一世紀以上前からまさにそれに取り組んできた。そして、もし興味があれば、その結果についての本が何冊も出ているから、読むことができる。(略)

 

 

手短にいえば、聖書は、記述していると称する出来事が起こってから何世紀も後に、それぞれ異なる書き手によって書かれた、おびただしい文書の集成であり、これらの文書が単一の聖なる書物にまとめられたのは、聖書時代のずっと後になってからのことだった。(略)

 

 

 

したがって、現時点で最善の科学知識によれば、「レビ記」に見られる同性愛行為の禁止は、古代エルサレムの少数の聖職者と学者の偏見を反映しているにすぎないことになる。科学は人々が神の命令に従うべきかどうかは決められないものの、聖書の起源については当を得たことを多く語れる。(略)」

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「第5章 科学と宗教というおかしな夫婦

 

物語は人間社会の柱石の役割を果たす。歴史が展開するにつれ、神や国家や企業にまつわる物語はあまりに強力になったため、ついには客観的現実まで支配し始めた。(略)

 

 

 

もちろん、科学理論は新種の神話だ、私たちが科学を信じるのは古代エジプト人が偉大な神セベクを信じるのと何ら変わりがない、と主張することもできるだろう。あいにく、この比較はまったく通用しない。(略)

 

 

 

抗生物質は神と違い、自らを助けない者さえも助ける。人がその効力を信じていようといまいと、抗生物質感染症を治す。

したがって、現代世界は近代以前の世界とはまったく違う。エジプトのファラオや中国の皇帝は何千年も努力を重ねたのに、飢饉と疫病と戦争を克服できなかった。

 

 

近代社会はそれを数世紀のうちにやってのけた。これこそ、共同主観的な神話をしてて客観的な科学知識を採用した結果ではないか?そして、今後の年月にこの過程が加速すると思っていいのではないか?テクノロジーのおかげで人間をアップグレードしたり、老化を防いだり、幸せのカギを見つけたりできるようになるだろうから、人々は虚構の紙や国家や企業への関心を失い、代わりに物質的現実や生物学的現実の解明に的を絞るのではないか?

 

 

 

そのように思えるかもしれないが、じつは物事はそれよりはるかに複雑だ。近代科学はたしかにゲームのルールを変えたが、あっさり神話を事実で置き換えたわけではない。さまざまな神話が人類を支配し続けており、科学はそうした神話の力を強めるばかりだ。

 

 

 

科学は共同主観的な現実を打ち砕くどころか、共同主観的な現実が客観的現実をかつてないほど完全に制御することを可能にするだろう。そして、人々が自分のお気に入りの虚構に合うように現実を作り変えるにつれて、コンピューターと生物工学のおかげで、虚構と現実の違いがあやふやになっていく。(略)

 

 

 

その結果、科学の台頭は、少なくとも一部の神話と宗教をかつてないほど強力にするだろう。したがって、その理由を理解し、二一世紀のさまざまな課題に取り組むためには、あらゆる疑問のなかでも最も悩ましいもの、すなわち、現代の科学は宗教とどう折り合いをつけるかという疑問に立ち返るべきだ。

 

 

 

 

この疑問に関して言うべきことはすべて、すでに何度となく語られてきたように思える。とはいえ実際には、科学と宗教は、五〇〇年もカウンセリングを受けて来たにもかかわらず、いまだにお互いがわかっていない夫婦のようなものだ。夫は相変わらずシンデレラを夢見ながら、そして妻は白馬の王子に恋い焦がれ続けていながら、今度ゴミを出しに行くのは誰も番かを言い争っているのだ。

 

 

 

 

病原菌と魔物

 

科学と宗教にまつわる誤解のほとんどは、宗教の定義の仕方が間違っているために生じる。人は宗教を、迷信や霊性、超自然的な力の存在を信じることや神の存在を信じること等と、じつに頻繁に混同する。

 

 

 

だが、そのどれ一つとして宗教ではない。宗教は迷信と同一視することはできない。なぜなら、大半の人は自分が最も大切にしている信念を「迷信」とは呼びそうにないからだ。私たちはつねに「真実」を信じる。迷信を信じるのは他の人々だけだ。

 

 

 

同様に、超自然な力を信じる人はほとんどいない。(略)霊の存在を信じない人だけが、霊は自然の摂理とは別個のものと考えるのだ。

超自然的な力を信じるのを宗教と同一視するのは、既知のあらゆる自然現象を宗教抜きで理解できることを意味する。宗教はオプションのおまけにすぎないというわけだ。

 

 

ところが、ほとんどの宗教は、その宗教抜きにはこの世界を理解することなど望むべくもないと主張する。その宗教の教義を考慮にいれなければ、病気や旱魃地震の真の原因はけっして理解できないというのだ。

 

 

 

宗教を「神の存在を信じること」と定義するのにも問題がある。敬虔なキリスト教徒は神を信じているから宗教的だが、共産主義には神がないから熱心ね共産主義は宗教的ではない、と私たちは言いがちだ。

 

 

 

とはいえ、宗教は神ではなく人間が創り出したもので、神の存在ではなく社会的な機能によって定義される。人間の法や規範や価値観に超人間的な正当性を与える網羅的な物語なら、そのどれもが宗教だ。宗教は、人間の社会構造は超人間的な法を反映していると主張することで、その社会構造を正当化する。(略)

 

 

 

自由主義者も、共産主義者も、現代の他の主義の信奉者も、自らのシステムを「宗教」と呼ぶのを嫌う。なぜなら、宗教を迷信や超自然的な力と結びつけて考えているからだ。(略)だが宗教的というのは、人間が考案したのではないもののそれでも従わなければならない何らかの道徳律の体系を、彼らが信じているということにすぎない。私たちの知る限り、あらゆる人間社会がそうした体系を信じている。

 

 

 

どの社会もその成員に、人間を超越した何らかの道徳律に従わなければならないと命じ、その道徳律に背けば大惨事を招くと言い聞かせる。(略)

 

 

 

もしあなた自身もたまたま共産主義者なら、それでも共産主義キリスト教は大違いだ、共産主義は正しく、キリスト教は間違っているから、と主張するかもしれない。階級闘争は本当に資本主義体制には付き物だが、金持ちは死んだあと、実際に地獄で永遠の責苦を味わうわけではない、と。

 

 

とはいえ、仮にあなたの言う通りだとしても、共産主義が宗教ではないことにはならない。むしろそれは、共産主義こそが唯一正真正銘の宗教であるということだ。どの宗教の信奉者も、自分の宗教だけが本物だと確信している。ひょっとすると、どれか一つの宗教の信奉者が本当に正しいのかもしれない。

 

 

 

もぢブッダに出会ったら

 

宗教とは社会秩序を維持して大規模な協力体制を組織するための手段であるという主張は、宗教は何はさておき霊的な道を示していると考える人をまごつかせるかもしれない。とはいえ、宗教と科学の隔たりが一般に思われているよりも小さいのとは裏腹に、宗教と霊性の隔たりは意外にもずっと大きい。宗教が取り決めるのに対して、霊性は旅だ。(略)

 

 

 

なぜそのような旅に「霊的」というレッテルを貼るのか?これは善悪二つの神の存在を信じていた古代のさまざまな二元論の宗教の遺産だ。二元論によれば、善良なる神は、霊の至福の世界に暮らす純粋で不滅の魂を生み出したという。

ところが、ときに悪魔とも呼ばれる邪悪な神が、物質からなる別の世界を創り出した。

 

 

 

 

悪魔は自分の創造物をどうしたら永続させられるか知らなかったので、物質の世界ではすべてが朽ち果て、ばらばらになる。悪魔は欠陥を抱えた自分の創造物に命を吹き込むために、霊の純粋な世界から魂を誘い出し、物質でできた体の中に閉じ込めた。

 

 

 

魂の牢獄である肉体は、衰え、やがて死ぬので、悪魔は肉体的な喜びで絶えず魂を誘惑する。その喜びの最たるものが、食べ物とセックスと権力だ。(略)

二元論は人々に、こうした物質的な束縛を断ち切り、霊の世界へ戻る旅に就くように指示する。霊の世界は私たちにはまったく馴染みがないが、じつは本当の故郷なのだ。(略)この二元論の遺産のせいで、俗世界の慣習や取引を疑って未知の目的地に敢然と向かう旅はみな、「霊的な」旅と呼ばれる。

 

 

 

そのような旅は宗教とは根本的に違う。なぜなら、宗教がこの世の秩序を強固にしようとするのに対して、霊性はこの世界から逃れようとするからだ。霊的なさすらい人にとって、とても重要な義務の一つは、支配的な宗教の信念と慣習の正当性を疑うことである場合が多い。禅宗では、「もし道でブッダに出会ったら、殺してしまえ」と言う。

 

 

 

もし霊的な道を歩んでいる間に、制度化された仏教の凝り固まった考えや硬直した戒律に出くわしたら、それからも自分を解放しなければならないということだ。

宗教にとって、霊性は権威を脅かす危険な存在だ。だから宗教はたいてい、信徒たちの霊的な探求を抑え込もうと躍起になるし、これまで多くの宗教制度に疑問を呈してきたのは、食べ物とセックスと権力で頭が一杯の俗人ではなく、凡俗以上のものを期待する霊的な真理の探究者たちだった。(略)

 

 

 

歴史的視点に立つと、霊的な旅はいつも悲劇的だ。社会全体ではなく、個々の人間だけふさわしい、孤独な道のりだからだ。人間が協力するには確固たる答えが必要で、疑問ばかりでは足りない。だから、無用になった宗教構造にいきりたつ人々は、それに取って代わる新たな構造を創り出すことが多い。(略)

 

二人は断固として真理をついきゅうしていくうちに、伝統的なヒンドゥー教ユダヤ教の戒律や典礼や組織を突き崩した。

だがけっきょく、歴史上、他の誰と比べても、彼らの名において生み出された戒律と典礼と組織の数の方が多い。」

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「紙の上に生きる

 

書字はこのようにして、強力な想像上の存在の出現を促し、そうした存在が何百万もの人を組織し、河川や湿地やワニのありようを作り変えた。書字は同時に、人間にとってそうした虚構の存在を信じやすくもした。書字のおかげで、人々は抽象的なシンボルを介して現実を経験することに慣れたからだ。(略)

 

 

 

古代のエジプトにおいてであれ、二〇世紀のヨーロッパにおいてであれ、読み書きのできるこのエリート層にしてみれば、紙に記されたことには何でも、木々や牛や人間と少なくとも同じぐらい現実味があった。

 

 

一九四〇年春、ナチスが北からフランスを侵略したときに、ユダヤ系フランス人の多くが、国を脱して南へ逃げようとした。(略)ポルトガル政府はフランス駐在の領事たちに、事前に外務省の許可を得ずにピザを発給することを禁じたが、ボルドーの総領事だったアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスは、外交官としての三〇年に及ぶキャリアを捨てる覚悟でこの命令を無視することにした。(略)

 

 

それでも、苦境に立たされた人々のことなど気にもかけない役人たちでさえ、公的な書類に対しては深い畏敬の念を抱いていたため、ソウザ・メンデスが命令に背いて発給したビザは、フランスとスペインとポルトガルの官吏たちが揃って尊重したので、三万もの人がナチスの魔手から逃れて国外へ脱出できた。

 

 

ゴム印以外にほとんど何の武器も持たなかったゾウザ・メンデスは、こうしてユダヤ人大虐殺の間に一個人としては最大規模の救出作戦をやってのけた。

 

 

文書の記録の神聖さがこれほど良い結果をもたらさないことも、しばしばあった。一九五八年から六一年にかけて、共産中国は大躍進政策を実施した。(略)

彼の実行不可能な要求は、北京の官庁から官僚制の階層を下り、地方行政官を経て、各地の村長にまで伝えられた。(略)

 

 

でっち上げられた数字が官僚制のヒエラルキーを上へと戻って行くときには、役人がめいめいペンを振ってどこかしらに「0」を書き加え、さらに誇張が積み重なった。

そのため、中国政府が一九五八年に受け取った年間穀物生産高の報告は、現実の五割増しだった。政府はその報告を鵜呑みにし、武器や重機と引き換えに、何百万トンもの米を外国に売却し、それでも自国民を養うだけの量は残ると思い込んでいた。

 

 

 

ところがその結果、史上最悪の飢饉が起こり、何千万もの中国人が命を落とした。

その間、中国農業の奇跡を伝える熱狂的な報道が、世界中の人々に届いていた。(略)政府のプロパガンダは、それらの集団農場が小さな楽園であるかのように宣伝したが、その多くは政府の書類上の上にしか存在しなかった。(略)

 

 

 

文字で表すのは現実を描写するささやかな方法と思われていたかもしれないが、それはしだいに、現実を作り変える強力な方法になっていった。公の報告書が客観的な現実と衝突したときには、現実の方が道を譲ることがよくあった。税務当局や教育制度、その他どんな複雑な官僚制であれ、相手に回したことがある人なら誰もが知っているように、事実はほとんど関係ない。書類に書かれていることのほうがあるかに重要なのだ。

 

 

 

聖典

 

文書と現実が衝突した時には、現実が道を譲らざるをえないことがあるというのは本当なのか?(略)

たとえば、アフリカの多くの国の国境は、河川や山並みや交易ルートを顧みず、歴史的な区域や経済的な区域をいたずらに引き裂き、地域の民族や宗教のアイデンティティをないがしろにしている。(略)

 

 

 

 

それにもかかわらず、侵略者たちは新たな衝突を避けるために、合意を堅持し、これらの想像上の線がヨーロッパの植民地の現実の境界となった。(略)

現代の教育制度も、現実が文書記録にひれ伏す例を無数に提供してくれる。(略)

もともと学校は、生徒を啓蒙し教育することが主眼のはずで、成績はそれがどれだけうまくいっているかを測る手段にすぎなかった。だがほどなく、学校はごく自然に、よい成績を達成することに的を絞り始めた。(略)

 

 

 

文書記録の持つ力は、聖典の登場とともに絶頂を極めた。(略)

エイブラハム・リンカーンは、すべての人をずっと騙し通すことはできないと言っている。残念ながら、それは考えが甘い。実際には、人間の協力ネットワークの力は、真実と虚構の間の微妙なバランスにかかっている。

 

 

もし誰かが現実を歪め過ぎると、その人は力が弱まり、物事を的確に見られる競争相手に歯が立たない。その一方で、何らかの虚構の神話に頼らなければ、大勢の人を効果的に組織することができない。だから、虚構をまったく織り込まずに、現実にあくまでこだわっていたら、ついてきてくれる人はほとんどいない。

(略)

 

 

 

ファラオの支配するエジプトや、ヨーロッパの諸帝国、現代の学校制度のような、本当に強力な人間の組織は、物事を必ずしも的確に見られるわけではない。それらの権力の大半は、虚構の信念を従順な現実に押し付ける能力にかかっている。貨幣というものがその好例だ。

 

 

政府がただの紙切れを発行し、それには価値があると宣言し、それからそれらを使って他のあらゆるものの価値を計算する。政府はその紙切れで税を払うことを国民に強制する権力を持っているので、国民は紙幣をある程度は手に入れるよりしかたがない。その結果、紙幣は本当に価値を持つようになり、政府の役人たちの信念が正しかったことが立証される。(略)

 

 

 

聖典も同様だ。(略)

「この本はただの紙にすぎない!」と抗議し、その言葉通りに振舞う人がいたとしたら、たちまち行き詰るだろう。(略)

もっとも、ヘロドトスやトゥキュディデスは聖書の著者たちよりも現実をはるかによく理解していたとはいえ、二つの世界観が衝突したときには、聖書の圧勝だった。古代ギリシアの人々はユダヤ人の歴史観を採用し、ユダヤ人がギリシア

歴史観を採用することはなかった。(略)

 

 

 

それどころか今日でさえ、アメリカの大統領が就任の宣誓を行うときには、片手を聖書の上に置く。同様に、アメリカとイギリスを含め、世界の多くの国では法廷の証人は、真実を、すべての真実を、そして真実だけを述べることを誓う時に、片手を聖書の上に置く。これほど多くの虚構と神話と誤りに満ちた書物にかけて真実を述べると誓うとは、なんと皮肉なことだろう。

 

 

 

システムはうまくいくが……

 

私たちは虚構のおかげで上手に協力できる。だが、それには代償が伴う。そのような虚構によって、私たちの協力の目標が決まってしまうのだ。だから私たちは、非常に手の込んだ協力システムを持っていても、それが虚構の目標と関心のために利用されるわけだ。

 

 

 

その結果、そのシステムはうまくいっているように見えるかも知れないが、それは私たちがそのシステムそのものの規準を採用した場合に限られる。(略)

学校の校長ならこんなことを言うだろう。「我々のシステムはうまくいっている。過去の五年間で、試験の結果が七・三パーセント上がった」。

 

 

とはいえ、それは学校を評価する最善の方法なのだろうか?(略)

このように、人間の協力ネットワークを評価するときには、すべてはどのような基準と観点を採用するかにかかってくる。ファラオ時代のエジプトは、生産高で評価するのか、それとも栄養で、あるいは社会的調和で評価するのか?(略)

 

 

したがって、どんな人間のネットワークであれ、その歴史を詳しく調べる時には、ときどき立ち止まって、何か現実のものの視点から物事を眺めてみるのが望ましい。では、あるものが現実のものかどうかは、どうすればわかるだろう?

 

 

 

とても単純だ。「それが苦しむことがありうるか?」と自問しさえすればいい。人々がゼウスの神殿を焼き払っても、ゼウスは苦しまない。ユーロは価値が下がっても苦しまない。銀行は倒産しても苦しまない。国家は戦争に敗れても本当に苦しむことはない。苦しむと言ったとしても、それは比喩でしかない。

 

 

それに対して、兵士は戦場で負傷したら、本当に苦しむ。飢えた農民は、食べ物が何もなければ苦しむ。雌牛は産んだばかりの子牛から引き離されれば苦しむ。それこそが現実だ。

 

 

 

もちろん虚構を信じているから苦しむこともありうる。たとえば、国家や宗教の神話を信じていたら、そのせいで戦争が勃発し、何百万もの人が家や手足、命さえ失いかねない。戦争の原因は虚構であっても、苦しみは一〇〇パーセント現実だ。だからこそ、虚構と現実を区別するべきなのだ。

 

 

 

虚構は悪くはない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け入れられている物語がなければ、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。人gは定めた同一のルールを誰もが信じていないかぎりサッカーはできないし、それと似通った想像上の物語なしでは市場や法廷の恩恵を受けることはできない。

 

 

 

だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や規準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。

 

 

 

企業やお金や国家は私たちの想像の中にしか存在しない。私たちは、自分に役立てるためにそれらを創り出した。それなのになぜ、きがつくとそれらのために自分の人生を犠牲にしているのか?

 

 

私たちは二一世紀にはこれまでのどんな時代にも見られなかったほど強力な虚構と全体主義的な宗教を生み出すだろう。そうした宗教はバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの助けを借り、私たちの生活を絶え間なく支配するだけでなく、私たちの体や脳や心を形作ったり、天国も地獄も備わったバーチャル世界をそっくり創造したりすることもできるようになるだろう。

 

 

 

したがって、虚構と現実、宗教と科学を区別するのはいよいよ難しくなるが、その能力はかつてないほど重要になる。」

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「第2部 ホモ・サピエンスが世界に意味を与える

 

第4章 物語の語り手

 

オオカミやチンパンジーのような動物は、二重の現実の中で暮らしている。一方で、彼らは木や岩や川といった、自分の外の客観的なものをよく知っている。他方で、恐れや喜びや欲求といった、自分の中の主観的な経験も自覚している。

 

 

それに対して、サピエンスは三重の現実の中で生きている。木や川、恐れや欲求に加えて、サピエンスの世界にはお金や神々、国家、企業についての物語も含まれている。(略)

 

 

人間は自分たちが歴史を作ると考えるが、じつは歴史はこうした虚構の物語のウェブを中心にして展開していく。個々の人間の基本的な能力は、石器時代からほとんど変わっていない。それどころか、もし少しでも変わったとすれば、おそらく衰えたのだろう。(略)

 

 

実際に神々が自らの業務を行っていたわけではないことは言うまでもない。理由は単純で、彼らは人間の創造の中以外のどこにも存在しなかったからだ。日々の活動は神殿の神官たちが管理していた(グーグルとマイクロソフトが、血の通った人間を雇って自社の業務を管理させる必要があるのとちょうど同じだ)。

 

 

 

ところが、神々がますます多くの資産と力を獲得するにつれ、その管理は神官たちの手に負えなくなった。彼らは強大な天空の神や全地の女神の代理ではあったものの、彼ら自身は誤りを犯しがちな生身の人間にすぎなかったからだ。(略)

 

 

これが大きな理由の一つとなって、世界の他のどの場所とも同様、シュメールでも人間の協力ネットワークは、農業革命から何千年も過ぎた後でさえ、さして拡大できなかった。地上には、巨大な王国も、広範な交易ネットワークも、普遍的な宗教も、一つとしてなかった。

 

 

 

この障害がついに取り除かれたのは、シュメール人が書字と貨幣の両方を発明した、およそ五〇〇〇年前だった。同じ親から同じ時に生まれた、書字と貨幣というこの結合体双生児は、人間の脳によるデータ処理の限界を打ち破った。(略)

 

 

 

他のどんな人間とも同じで、ファラオも生物学的な肉体や、生物学的欲求、欲望、情動を持っていた。だが、生物学的なファラオにはほとんど重要性がなかった。ナイル川流域の真の支配者は、何百万ものエジプト人が互いに語り合う物語の中に存在する想像上のファラオだったのだ。(略)

 

 

 

ファラオとまさに同じで、エルヴィスも生物学的な肉体や、生物学的欲求、欲望、情動を持っていた。エルヴィスは食べ、飲み、眠った。とはいえエルヴィス

生物学的な肉体をはるかに超える存在だった。ファラオ同様、エルヴィスは物語であり、神話であり、ブランドだった。そしてそのブランドは、生物学的な肉体よりもずっと重要だった。(略)

 

 

 

書字が発明される前、物語は人間の脳の限られた容量の制約を受けていた。(略)人間の頭に収める代わりに、粘土板やパピルスなどに保存すればいいからだ。(略)エルヴィス・プレスリーは自分の名前で結ばれた契約など、全部は読みさえしなかった。欧州連合の法律や規制のすべてに通じている人は誰もいない。そして、世界中のお金を動きを一ドル残らず把握している銀行家もCIAのエージェントもいない。それにもかかわらず、これらの細目は残らずどこかに記されており、関連文書の全体が、ファラオやエルヴィス、欧州連合、ドルのアイデンティティと力を決めている。

 

 

 

このように書字のおかげで、人間は社会をまるごとアルゴリズムの形で組織できるようになった。(略)読み書きのできない社会では、人々はあらゆる計算や決定を頭の中で行なう。一方、読み書きのできる社会では、人々はネットワークを形成しており、各人は巨大なアルゴリズムの中の小さなステップでしかなく、アルゴリズム全体が重要な決定を下す。これこそが官僚制の本質だ。(略)

 

 

 

このアルゴリズム構造があるおかげで、当番の受付係や看護師や医師が誰であるかは問題でなくなる。彼らの性格タイプや政治的見解やそのときどきの気分は関係ない。誰もが規定と手順に従っているかぎり、あなたが治してもらえる可能性はとても高い。

 

 

 

アルゴリズムの理想によれば、あなたの運命は、たまたまあれやこれやの職を占めている生身の人間の手ではなく、「システム」の手に委ねられている。

病院に当てはまることは、軍隊や刑務所、学校、企業にも、そして古代の王国にも当てはまる。(略)

 

 

 

古代エジプトでも、ほとんどの決定は一人の賢人ではなく、パピルスに記された石に刻まれたりした文書通じてつながった役人のネットワークが下していた。このネットワークは、生き神のファラオの名において活動し、人間社会を再構成し、自然界を造り変えた。(略)

 

 

たとえば紀元前一八七八年から紀元前一八一四年まで親子二代にわたってエジプトを治めたセンウセレト三世と息子のアメンエムハト三世という二人のファラオは、ナイル川をファイユームの谷の湿地につなげる大規模な運河を掘った。ダムや貯水池、副次的な運河から成る複雑なシステムによって、ナイル川の水の一部をファイユームに回し、五〇〇〇億立法メートルの水を貯める巨大な湖を造った。

 

 

比較のために言うと、アメリカ最大の人造湖であるミード湖(フーヴァーダムによってできた)の最大貯水量は、三五〇億立法メートルだ。

ファラオはファイユームの土木事業によって、ナイル川の水量を調節したり、壊滅的な洪水を防いだり、旱魃の時に貴重な水を供給した救援したりする力を得た。さらに、この事業のおかげでファイユームの谷は、不毛な砂漠に囲まれた、ワニがうようよする湿地から、エジプトの穀倉地帯に生まれ変わった。(略)

 

 

 

センウセレト三世とアメンエムハト三世の時代には、エジプト人はブルドーザーもダイナマイトも持っていなかった。(略)エジプト人がファイユームの湖とピラミッドを建設できたのは、地球外生物の助けがあったからではなく、卓越した組織力を持っていたからだ。

 

 

ファラオは読み書きのできる何千もの官吏を頼みに、何万もの労働者と、彼らを何年も続けて養える食糧を調達できた。何万もの労働者が数十年にわたって強力えば、石器を使ってでさえ、人造湖やピラミッドを建設できる。

もちろんファラオ自らは、何一つしなかった。(略)だがエジプト人は、ナイル川流域を壊滅的な洪水や旱魃から掬えるのは、生き神のファラオとその守護神セベクへの祈りだけだと信じていた。彼らは正しかった。(略)

 

 

 

想像上の存在がものを建設したり人を支配したりすると考えるのは、奇妙に思えるかもしれない。だが今日、私たちは日頃から、アメリカが世界初の核爆弾を製造したとか、中国が三峡ダムを建設したとか、グーグルが自動走行車を造っているとか言っている。それならば、ファラオが貯水池を造ったとか、セベクが運河を掘ったとか言ってもおかしくないではないか。」

 

 

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「 夢と虚構が支配する世界

 

サピエンスが世界を支配しているのは、彼らだけが共同主観的な意味のウェブ―― ただ彼らに共通の想像上の中にだけ存在する法律やさまざまな力、もの、場所のウェブ —— を織り成すことができるからだ。人間だけがこのウェブのおかげで、十字軍や社会主義革命や人権運動を組織することができる。(略)

 

 

その結果、猫やその他の動物が客観的な領域に閉じ込められ、もっぱら現実を描写するためにコミュニケーションシステムを使っているのに対して、サピエンスは言語を使って完全に新しい現実を生み出す。(略)

 

 

他の動物たちが人間に対抗できないのは、彼らには魂も心もないからではなく、必要な想像力が欠けているからだ。ライオンは走ったり飛び跳ねたり、鉤爪で引っかいたり、噛みついたりできる。だが、銀行口座を開いたり、訴訟を起こしたりはできない。そして、二一世紀の世の中では、訴訟の起こし方を知っている銀行家のほうが、サバンナで最も獰猛なライオンよりもはるかに強力なのだ。

 

 

 

共同主観的なものを生み出すこの能力は、人間と動物を分けるだけではなく、人文科学と生命科学も隔てている。歴史学者が神や国家といった共同主観的なものの発展を理解しようとするのに対して、生物学者はそのようなものの存在はほとんど認めない。(略)

 

 

 

一方、人文科学は共同主観的なものの決定的な重要性を強調する。そうしたものはホルモンやニューロンに還元することはできない。歴史的に考えるというのは、私たちの想像上の物語の中身には真の力があると認めることだ。もちろん、歴史学者は気候変動や遺伝子の変異といった客観的要因を無視するわけではないが、人々が考え出して信じる物語をはるかに重視するのだ。

 

 

 

北朝鮮と韓国があれほど異なるのは、ピョンヤンの人がソウルの人とは違う遺伝子を持っているからでもなければ、北の方が寒くて山が多いからでもない。北朝鮮が、非常に異なる虚構に支配されているからだ。(略)

 

 

 

したがって、もし自分たちの将来を知りたければ、ゲノムを解読したり、計算を行なったりするだけでは、とても十分とは言えない。私たちには、この世に意味を与えている虚構を読み解くことも、絶対に必要なのだ。」