読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「第六章 「理想の時代」とその蹉跌

      (戦後レジーム:形成期③)

1 焼け跡・闇市から「戦後の国体」の確立へ

▼理想の時代

前章で見てきた「国体を護持した敗戦」と占領、講和条約の発効、日米安保体制の成立にまつわる政治神学的過程の進行と並行して、この期間は、著しい社会混乱と同時に、あの軍国主義と敗戦を経てどんな国として再出発するのかという問いが、かつてない熱気を帯びて問われた時代であった。(略)

 

 

大まかに言って、「戦後の国体」に直接関わる論争は、次のように展開してきた。

その嚆矢は、一九五一年に調印されたサンフランシスコ講和条約ならびに日米安保条約をめぐる講和論争に求められる。論争は、「全面講和か片面講和か」というかたちで闘われた。(略)

 

 

 

安保闘争は、ある面では全共闘運動に引き継がれる。そして、東大闘争やあさま山荘事件といった激しいスペクタクルが展開され、これらの異議申し立て運動が粉砕ないし自壊した時、多くの人々が「時代の終焉」を感じ取った。

 

 

▼政治論争 ― ふたつの原型

これらの論争・政治闘争における争点の基軸のひとつは、「反米」であった。それは、「戦後の国体」がアメリカを頂点とするものとして構築されたものであった以上、反対者たちがそれを掲げたのは見やすい道理である。(略)

 

 

 

この論争には、戦後の政治論争の原型が現れている。反体制側は対米従属一辺倒でない日本の国際的立ち位置を模索・追及すべきだと主張し、権力側は「机上の空論でお話にならない」と門前払いするというパターンであり、このパターンは現在に至るまで引き続いている。(略)

 

 

 

片面講和と日米安保条約への講和とは、③の独立国として筋の通った選択肢を捨て、アメリカの庇護の下での復興・発展という実を取ることを意味した。(略)

 

 

また、講和論争においてすでに現れたもうひとつのパターンがあった。それは、戦争の脅威が常に「米ソの対立に日本が巻き込まれる」というかたちで提起されることである。(略)

このパターンは「アメリカとソ連」が今日、「アメリカと北朝鮮」あるいは「アメリカとイスラム原理主義テロ組織」といったかたちに変更されて維持されている。

 

 

以上のふたつのパターンは、六〇年安保においてすぐに反復されることとなる。そして講和論争と安保闘争の間に挟まれているのが、五〇年代の改憲論争である。(略)

 

 

 

しかし、一九五二年から五五年にかけての政局において、改憲再軍備の問題は、保守勢力諸党の議題に度々上り、鳩山が政権の座に就いたにもかかわらず、ついに実現することはなかった。その端的な理由は、改憲再軍備への意欲を保守勢力が露わにすればするほど、再軍備に強硬に反対する左派社会党が得票を伸ばしたからである。(略)

 

 

言い換えれば、有権者は一貫して、改憲を党是とする政党を支持しながら改憲に反対してきた、というねじれがここにはある。(略)」

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 昭和天皇の「言葉のアヤ」発言

(略)

あまりに重い戦争責任の問題を「言葉のアヤ」と呼んだことには、ある種の過剰性が感じられる。(略)

なぜなら、国体護持のために日米合作でつくられた物語は、「天皇に戦争責任はない」と政治的に決めたのである。(略)

 

 

「国体は護持されたという物語を諸君も欲しがったからこそ、私はその物語に忠実に振舞ってきた。この物語の<ゲームのルール>に乗っかりながら(物語を成り立たしめる協力者として振舞ってきながら)、突然それをなかったことにするのか」 ― 歴史的事実に照らして天皇の本音を推測すれば、そのような思いがあったはずである。

 

 

ゆえに、戦争責任をめぐる問いには、回答しようがない。「そういう問題についてはお答えが出来かねます」。この強い言葉には、天皇自身が知悉していた国体護持の虚構性とそれについて知らないふりをする者へのいら立ちが滲み出ている。

 

▼ 権威と権力の構造

カール・マルクス箴言にいわく、「人間は自分自身の歴史をつくるが、自分が選んだ状況下で思うように歴史をつくるのではなく、手近にある、与えられ、過去から伝えられた状況下でそうするのである。死滅したすべての世代の伝統が、生きている者たちの脳髄に夢魔のようにのしかかっているのだ」(「ルイ・ボナパルトブリュメール一八日」)。(略)

 

 

日本人の歴史意識からとらえられたマッカーサー征夷大将軍であったとすれば、それは「不変の権威=天皇」(国体)/ 「現実的権力=マッカーサーGHQ」(政体)という伝統的な認識図式に収まる。(略)

 

 

 

そして、マッカーサーが瞬く間に「救世主」として日本国民から受け入れらえれたことも、これまた「死滅したすべての世代の伝統が、生きている者たちの脳髄に夢魔のようにのしかかっ」たことの一例ではなかったか。(略)

 

 

「さらには、マッカーサーが解任され本国へ帰還する際(一九五一年)には、マッカーサー神社を建立しようという計画が持ち上がり、発起人には、秩父の宮夫妻、田中耕太郎(最高裁長官)、金森徳次郎国立国会図書館長)、野村吉三郎(開戦時駐米大使)、本田親男(毎日新聞社長)、長谷部忠(朝日新聞社長)ら、錚々たる有力者が名を連ねた。(略)

 

 

 

坂口安吾が衝いた「天皇崇拝者」の二重意識

あの戦争において膨大な人々を殺した天皇制が、敗戦にもかかわらず再建される過程を目の前で見ながら、坂口安吾は次のような激しい天皇制批判、より正確には天皇制を作り出し維持する日本人への批判を書きつけた。

 

 

天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。

(略)

その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼らの号令であり、彼らは自分の欲するところを天皇の名に於いて行い、自分がまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押し付けることによって、自分の号令を押しつけるのである。

 

 

 

自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。(略)

 

 

 

それは遠い歴史の藤原氏武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか。(中略)何たる軍部の専断横行であるか。しかもその軍人たるや、かくの如くに天皇をないがしろにし、根柢的に天皇を冒瀆しながら、盲目的に天皇を崇拝しているのである。ナンセンス!ああナンセンス極まれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制の真実の相であり、日本史の偽らざる実体なのである。

 

 

 

まさにこれは「藤原氏武家のみの物語ではない」のであった。(略)

アメリカは、天皇制の「カラクリ」と安吾が呼んだものに進んで搦めとられることを自国の国益の実現に適うものと認識して、実際に行動したと言える。(略)

 

 

これらの「天皇崇拝者」の二重意識を安吾は衝いていた。いわく、彼らは「根柢的に天皇を冒瀆しながら、盲目的に天皇を崇拝している」。

アメリカは、国体護持の神話の成立に協力しながら(天皇崇拝)、それが自己利益のためであること(天皇冒瀆)を隠蔽する。他方、民主主義者に転向した日本人は、アメリカン・デモクラシーを熱烈に支持しながら(天皇アメリカ)崇拝)、その実態がすでに見たように国民主権とはかけ離れたイカモノにすぎない事実を見ようとはしない(天皇アメリカ)冒瀆)。(略)

 

 

それは、この二重意識自体が意識されているか否かの違いである。安吾は言う。

 

 

藤原氏の昔から、最も天皇を冒瀆する者が最も天皇を崇拝していた。彼らは真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、わが身の便利の道具とし、冒瀆の限りをつくしていた。現代に至るまで、そして、現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、概ねそれを支持している。

 

 

 

戦後のいわゆる親米保守支配層は、ここに言われる「藤原氏」の末裔である。彼らは、対米従属レジーム=安保国体を天壌無窮のものとして護持することを欲するが、それはアメリカン・デモクラシーの理念への心服ゆえではなく、そこに彼らの現実的利益が懸かっているからである。

 

 

たとえば、頻繁に文書の隠蔽を行ない、民主主義の根幹をなす公開性の原則を蔑ろにする外務省が、平気で「価値外交」なるスローガンを掲げるという茶番には、かかる分裂に対する認識、それに伴う葛藤を見出すことはできない。(略)

 

 

▼ 冷戦の終焉=権威と権力の分立の終焉

(略)

そもそもポーズにすぎなかった、日本人が懐く国体をめぐるファンタジーへの、アメリカのお付き合いは終わる。共産主義の脅威なき後、アメリカが天皇ないし日本のために「征夷」する動機はなく、慈恵的君主として自ら君臨する動機もないからである。つまり、安保国体は、現実的基盤を喪う。

 

 

 

してみれば、われわれが直面しているのは、権威と権力の両方を兼ね備えたアメリカを受け入れるのか ― 自民党政権に代表される親米保守支配勢力の考えによれば、「この道しかない!」のだそうだ ― 権威としてのアメリカを拒否し、現実的権力としてのアメリカと現実的な付き合いをするのか、という岐路なのである。」

 

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「4 征夷するアメリ

征夷大将軍マッカーサーという物語

かくて、敗戦と混乱、被占領という危機を乗り越えて、初期戦後レジームの骨格、すなわち、日米安保条約を基礎とする微温的な反共主義体制が結果的に成立するが、そこから遡及的に見れば、マッカーサーは戦争責任問題から天皇を救い出しただけでなく、一層勢力を増して来た「国体への脅威」としての共産主義から国体を守り抜く存在として、日本に降り立ったのだと見ることができるようになる。

 

 

 

してみれば、マッカーサーは、ある意味で「勤皇の士」ではないのか。

そして、実はこのような光景は、日本史において見慣れたものにほかならない。天皇マッカーサーのあの会見は、日本の歴史上、何度も繰り返されてきた構図の反復なのである。(略)

 

 

かかる構造においては、権力の正統性源泉は天皇によってあらかじめ独占されており、したがって、権力を獲ろうとする者は、尊皇・勤皇を表向き必ず掲げざるを得ない。

しかし、権力交替の際、天皇が実力者との接し方を誤ればこの法則は破られかねなかったであろうし、そうなることは直ちに、天皇の身の危険、王朝の廃絶の危機を意味したはずである。

 

 

あの会見以来、天皇マッカーサーの関係は速やかに協力的なものとなり、GHQ天皇制温存の判断はますます堅固なものとなっていったが、それは、幾度ものそのような危険な瞬間を歴史上乗り越えてきた、天皇家の、いわばDNAが力を発揮した結果であっただろう。(略)

 

 

占領史研究をリードしてきた政治学者の袖井林二郎も次のような指摘をしている。

 

 

天皇を通じて日本を支配する、それこそまさに将軍家の機能にほかならなかった。明治維新によって最後の将軍が廃絶されて以来、七十余年ぶりで、日本は将軍を戴くことを強制される。

 

 

 

だが、この「強制」は、日本人の歴史的無意識によって濾過され、天皇によるマッカーサー征夷大将軍への任命ととらえれば、次のような首尾一貫した物語をつくることに役立てることができる。

 

 

 

すなわち、「夷狄」を討つことが征夷大将軍の役割であるが、マッカーサーはまず、平和主義者たる天皇に無理矢理戦争を始めさせた戦争狂の軍人たちを屈服させて、天皇を彼らの包囲から救けだした。そう考えれば、あの会見の場面は、昭和天皇マッカーサー征夷大将軍に任命した瞬間である、ということになる。(略)」

 

〇 この「マッカーサー(=アメリカ)によって戦争狂の軍人たちから救われた」という感覚は、実際に、私の中にもあります。そして、現代においても、全く道理の通らない状況の中で、オリンピックを止めると決断できない政権から、助けてくれる「力」がどこかにあるとしたら、それは、外国の「世論」ではないかと、思うしかない気持ちがあります。それほどまでに、私たちの国には、真っ当な論理を積み上げ議論を重ね、合意に導く習慣や風土がないと、思い知らされています。

情けないと思います。そんなはずはない、と希望を持ちたかった…。でも、あれほどまでに、酷い政治家、自民党公明党が支持されているということは、国民のレベルが、それほどまでに酷いと思うしかありません。この国の人間には、自治能力がないと思わざるを得ません。絶望的な気持ちになります。

 

 

「▼どちらが主人なのか

(略)

こうした「日付のポリティクス」によって、GHQは「どちらが主人なのか」を度々思い起こさせようとしたわけだが、意思の強要という点で最も重要かつ際立っていたのは、昭和天皇に退位を許さなかったことであろう。(略)

 

 

しかしそれが実行されなかった理由は、究極的にはアメリカの意思であった。なぜマッカーサーが退位を強硬に禁じたのか、現在でも不明な点が多いが、退位は「平和主義者である天皇に戦争責任は一切ない」という物語に対して害を及ぼしかねないという判断や、「アメリカが天皇を辞めさせた」という印象を日本人に対して与えることを避けた、といった事情が推論可能であろう。」

 

 

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼「新しい国体」と新憲法制定

この統治構造は、新憲法日本国憲法)の制定過程にもよく表れている。

(略)

言い換えれば、国体の頂点を占めるGHQ(=連合国、実質的にアメリカであり、より実質的にはマッカーサー)が、天皇を通じて主権を行使する、というかたちであった。(略)

つまり、新憲法の謳う国民主権における「国民」は、制憲過程において一貫して不在であり、GHQが日本国民の主権者としての地位を代行・擬制しているにすぎない、という事実からは、目が閉ざされたのであった。

 

天皇制の存続・戦争放棄・沖縄の犠牲化 ― 「戦後の国体」の三位一体

かつ、こうした憲法制定過程という外面的事情のみならず、新憲法の内容もまた、国体護持、あるいはリニューアルに深く関わっていた。(略)

 

 

そして、戦争放棄は、アメリカの国内世論と国際世論を納得させるために必要とされていた。「ヒトラームッソリーニに比すべきヒロヒト」と考える人が世界中にいるなかで天皇を守り抜くためには、日本が完全なる非武装国家となるという大転換を打ち出さねばならなかったのである。(略)

 

 

マッカーサーからすれば、円滑な占領統治のために是が非でも天皇を救いたい。ここには両者の、阿吽の呼吸とも言うべき、協力関係を見て取ることができる。(略)

 

 

 

右に見たように、「天皇制の存続」は憲法九条による絶対的な平和主義を必要としたが、他方で、その同じ「天皇制の存続」は日米安保体制を、すなわち世界で最も強力かつ間断なく戦争を続けている軍隊が「平和国家」の領土に恒久的に駐留し続けることを必要とした。

 

 

この矛盾に蓋をする役割を押し付けられたのが沖縄である。(略)

つまり、天皇制の存続と平和憲法と沖縄の犠牲化は三位一体を成しており、その三位一体に付けられた名前が日米安保体制(=戦後の国体の基礎)にほかならない。(略)

 

 

 

ゆえに、「戦後の国体」、すなわち世界に類を見ない特殊な対米従属体制が国民統合をむしろ破壊する段階に至ったいま、その矛盾が凝縮された場所=沖縄において、日本全体が逢着している国民統合の危機が最も先鋭なかたちで現れているのである。

 

 

 

昭和天皇が果たした超憲法的な役割

なお、新憲法施行以降、日米安保条約の成立に至る過程で昭和天皇が取った行動は、憲法に定められた天皇の権限から逸脱した政治介入である。(略)

その役割とは、自己の意思を強硬に押し付けるということではないが、完全に受動的で名目的な存在としての立憲君主のそれというものでもなかった。(略)

 

 

 

ただし、当人の認識はともかくとして、終戦から日米安保体制の成立に至る体制全般の危機の過程で天皇が果たした役割は、超憲法的なものであった。戦争終結天皇自らが実質的に裁断した場となった御前会議は明治憲法において規定のない超憲法的存在であったし、新憲法の下では、主権者であると擬制された国民の選んだ政府と超憲法的権力そのものであるGHQおよびアメリカ政府とを媒介する役割を果たしたのであった。」

 

 

 

 

パンとサーカス

〇 「国体論」の中で、天皇制民主主義によって、アメリカは、

日本人を上手く統治してきたという説明を聞くと、なるほど、と思います。

また、新聞小説の「パンとサーカス」では、具体的な物語として、現代にまで続くアメリカの「支配」を描いています。

 

五月二十日(284)と五月二十八日(292)分をメモします。

 

「五月二十日(284)

空也を国外に逃がす友情作戦は首尾よく運んだものの、この事実がバレるのは時間の問題と思われた。当然、キム・ユジンも無傷ではいられないが、彼はそれを承知の上で空也の密航に協力した。寵児が「テロリストに仕立てられた友人を救いたい」と相談した当初、キム・ユジンは「自分には無関係」と冷淡だった。だが、「このテロは、安全保障予算と米軍維持費の大幅な増額を認めさせるために、CIAと極右の政商が共謀した自作自演だ」という寵児の主張を聞く耳は持っていた。

 

 

その可能性を否定するどころか、「CIAなら、やりかねない」と真剣に取り合ってくれた。在韓米軍も南北和平を意図的に妨害し、安全保障の利権を貪り、事あるごとに韓国政府に法外な軍事負担を要求する。中国と経済的結びつきを強めようとすると、必ず邪魔をしてくる。キム・ユジンは韓米の連携を担う任務を遂行しながら、一人の韓国人として、祖国がアメリカの属領扱いされていることへの義憤に駆られてもいた。この陰謀を暴くことが至難の業であることも彼はよく理解していた。

 

 

空也と太郎ほか、テロを計画し実行した数名に全ての罪を被せ、幕引きを図ろうとしているグレイスカイの思惑をも彼は察していた。これを黙って見過ごせば、受動的に組織に奉仕し、その不正にも加担するいつもと同じ型の踏襲になる。ユジンは、服従か、抵抗か、どちらか選ぶ場面では、抵抗を選ぶ男だ。

 

 

 

ここで密かに寵児に協力しておけば、グレイスカイが摘発された時にポイントを稼げるとも考えたに違いない。たとえ勝算が薄くても、こちらの目に賭けてくれたのだ。

空也は寵児に蓮華の秘書のパソコンから盗み出したデータを託していった。すでにドローンの密輸ルートも、蓮華の秘書の売買への関与を裏付ける資金の流れも把握していた。

 

 

 

さらに蓮華とグレイスカイが共謀していた証拠と、CIAがドローン密輸の情報をテロ実行前に掴んでいた証拠を押さえれば、陰謀を実証できる。しかし、自作自演説を真に受ける政府関係者も、大手メディアも皆無であることは肝に銘じておかなければならない。いくら証拠を揃えても、政府はCIAとグレイスカイの方を信じ、寵児に沈黙を強いるだろう。この陰謀説に飛びつくメディアは、それこそ空也寄りの「エンドスコープ」くらいで、他の主要メディアが沈黙を決め込むことは火を見るよりも明らかだ。」

 

 

 

「五月二十八日(292)

蓮華はグレイスカイを「クソガキ」と吐き捨てるほど、憎んでいる。それなのになぜ二人は共謀するに至ったのか?それを聞き出す最初で最後の機会を逃すわけにはいかない。マリアの説得に警戒を解いたか、蓮華はしわがれ声で語り始めた。

 

 

 

― ほんまはグレイスカイを殺したかったんや。あいつだけは許せん。

 

― どの動機は何だったんですか?

 

― 話せば長くなる。蓮華家は親父の代からCIAに協力して、アメリカの占領政策の片棒を担いできた。親父は戦犯として追放されとったけど、CIAが復活の道を開いたんや。国粋主義者を反共勢力として利用するためやった。暴力団を下請けにして、企業乗っ取り、脅迫、メディア操作もやった。公営ギャンブルの利権ももろて、裏では武器売買も手掛けた。

 

 

 

アメリカ製の戦闘機の納入を政府に働きかけて、工作資金を貴金属や外国為替を扱うダミー会社経由で受け取ってたんや。その見返りとして、CIAの日本支部のアジア政策研究センターを作ったんが親父や。

 

 

― そこまで深い関係を築きながら、どうしてグリーンウォーターの暗殺や横田基地の攻撃を指示したんですか?

 

― あいつらは悪魔や、盗人や。CIAのお陰で蓄財したカネはCIAに返せ、いいよんねん。悪魔と契約したもんはとことん奪い取られてまう。暗殺とテロの資金出したんは、日本と自分の魂を売った罪滅ぼしや。日本をアメリカから取り戻さな、死んでも死に切れんわ。

 

 

― それは本心ですか?

 

― 本心やがな。国民から搾り取ったカネは国民に返さなあかんやろ。もうCIAにはびた一文払わん。カネのために反共右翼に走ったオレも親父も若い頃は社会主義に傾倒しとった。原点に戻るだけの話や。それで心の平和を買うて死ぬ。

 

 

― あなたは確信犯として、CIAを裏切ることにしたんですね。

 

― 復讐のつもりやった。今までアメリカの武器をぎょうさん買うたが、腹いせにロシアの武器を買うて横田基地攻撃したろ思うたんやけど、計画は事前に漏れてしもた。

 

 

― グレイスカイはテロを事前に把握していたんですか?

 

― ドローンを密輸したことを秘書が密告したんや。秘書とあいつは通じとった。もう、マリア以外誰も信用でけん。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「3国体のフルモデルチェンジ

▼「八月革命」の真相 ― 天皇からGHQへの主権の移動

それでもこの間、日本国の許に主権がなかったからといって、主権そのものが蒸発していたわけではない。いやしくも、何がしかの決定が実効的になされうる政治秩序が存在するのであれば、そこには主権が存在する。

 

 

 

長尾龍一は、宮沢俊義の「八月革命説」を批判して、次のように言う。

 

 

八月革命説の奇妙な点は、間接統治とはいえ占領軍の統治を受け、いわば占領軍を主権者とする体制に於いて、そのことを捨象して天皇主権とか国民主権とかがありうるかのように議論していることである。比喩的にいえば、「宣言」受諾によって、主権は天皇から国民にではなく、マッカーサーに移ったのである。(略)

 

 

 

このことを最も雄弁に物語るのは、日本国憲法九条による戦後日本の武装解除とその後の再武装(一九五〇年の警察予備隊創設)である。後に自衛隊となる実力組織の創設は、ポツダム政令によって行われた。(略)

 

 

要するに、GHQは、憲法を制定する権力を持っていたのと同時に、政治的に必要であれば憲法を破る権力(憲法に拘束されない権力)を持っていた。(略)

 

 

 

そのプロセスに見て取れるものは、二〇世紀で最も論争的な政治思想家、カール・シュミットの言った「政治神学」を連想させる。シュミットの主著「政治神学」は、政教分離によって世俗化された近代の政治空間において用いられる概念が、実はキリスト教神学で用いられていた概念が翻案されたものであることを指摘した。

 

 

 

わけても名高いのは主権者の概念であり、シュミットは、主権者とは「例外状態に関して決断を下す者」であると定義する。「例外状態」とは、典型的には革命や内乱といった、通常の法秩序が崩壊した状況を指し、主権者とは、そのような状況においてその命ずるところを通用させることができる者を指すが、かかるものとしての主権概念は、神学における「奇跡」の概念の世俗的翻案であるとシュミットは説く。

 

 

 

日本の敗戦から占領に至る時期も、おびただしい社会混乱と主権者の交替によって「例外状態」に属するものであったといえようが、これを通じて日本人は「新しい民主主義的法秩序」を獲得したという外観の下で、実は「国体」という旧秩序の要を成す概念が守り抜かれた。

 

 

 

そしてここにおいて、シュミットの言うキリスト教神学の翻案の役割を果たしたのは、後に見るように、日本人の歴史的無意識、すなわち、既知の歴史のパターンを未曾有の状況としての現在へと適用することであった。

 

 

砂川事件判決のおぞましさ

しかも、先に示唆したように、この国家主権の構造は占領終結と同時に終わらず、日米安保体制へと引き継がれる。

それを象徴するのが、一九五七年に発生し、五九年に判決が出された砂川事件である。(略)

 

 

 

一審の判断を最高裁が覆した事自体は、日本の三権分立の形式性の実態に照らせばいまさら驚くには値しないかもしれない。しかし、二一世紀になってから明らかにされたのは、この最高裁判決が出されるに至る過程のおぞましさであった。

 

 

一審判決に驚愕したのは日本政府だけでなくアメリカ側も同様であったが、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー二世は、伊達判決が無効化されるよう、藤山愛一郎外相や最高裁長官の田中耕太郎に圧力を掛けた。(略)

 

 

最大の問題は、日本側とりわけ田中耕太郎が、アメリカからの圧力を不当な介入として撥ねつけるどころか、自ら積極的におもねっていた、もっと端的に言えば、この判決は「駐日アメリカ大使から指示と誘導を受けながら」書かれたという事実である。(略)

 

 

 

これにより、日本の法秩序は、日本国憲法と安保法体系の「二つの法体系」(長谷川正安)が存在するものとなり、後者が前者に優越する構造が確定されたのである。

 

 

 

▼主権の放棄と国体護持の交換 ― 「アメリカの日本」の完成

(略)

かかる代償によってわれわれは何を得たのか。それこそが「国体は護持された」という擬制にほかならない。(略)

 

 

▼われわれが得た「自由」

(略)

したがって、主権と引き換えにして得られたものとは、正確に言えば、国体に対する主観的な解釈の権利であり、言い換えれば、国体の概念に対してわれわれ日本人が投影したい概念を投影することができた、ということにすぎない。さらにその解釈は当然、「ポツダム宣言の内容に明白に反しない限りにおいて」という制限を受ける。(略)

 

 

とはいえ、かつてファッショ体制を領導した政治家たちが「自由民主党」を名乗りながら、アメリカン・デモクラシーの何たるかを本気では理解しようとはせず、外面的にそれに迎合してみせるだけで内心これを軽蔑・嫌悪することが許される、という程度の自由は現実に保障されてきたのである。(略)

 

 

(略)

 

さまざまな意味で、「あの戦争に負けてよかった」とは、多くの場面で語られてきた戦後の日本人の本音であるが、このような本来あり得ない言明が半ば常識化し得たのは、われわれが、「新しい国体」を得たことによると考えるならば、合点がゆく。」

 

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼不可視化され、否認された「主権の制限」

かつ、この問題は、占領が終わることによって自動的に解消されたものでもない。

サンフランシスコ講和条約の発効による占領の終結は、バーンズ回答に言う、「最終的ノ日本国政治ノ形態」が「日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラル」ことができる状況に移行した、つまり国体・政体の在り方を決める決定権を日本が回復したことを本来意味したはずである。

 

 

 

しかし、サンフランシスコ講和条約は、同時に結ばれた日米安保条約とワンセットであった。先述したように、アメリカが形式上主権を回復した日本に求めたのは、「我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」(ダレス米大統領特使)であった。(略)

 

 

 

一体何がそれを可能にしているのだろうか。われわれはその答えを「国体護持」に見出す。

すでに見たように、アメリカの支配を受け容れることの正当化は、マッカーサー昭和天皇の会見に象徴される、アメリカと天皇の「友好的な」結合、すなわち国体の再編成の過程を通じて行われた。(略)

 

 

 

後述するように、このアメリカを媒介項とする国体の護持あるいは再編成が、あの敗戦の結果、戦勝国によって支配されているという至極当然の事実を不可視なものとするのである。

 

 

 

▼国体護持の不可能性

だがしかし、吉田茂が言ったように、国体は「毫モ変更セラレナイ」などということが、本当にあり得ただろうか。(略)

 

 

第三章で見たように、明治憲法立憲主義的に運用しうる要素が含まれていたにせよ、第三者の視点から見た一九四五年八月一〇日の時点での日本は、神権政治的理念によって衝き動かされた極度に軍国主義的な「専制君主制国家」以外の何物でもなかったし、それは明治憲法に孕まれていた可能性の実現形態のひとつであった。

 

 

当然のことながら、サンフランシスコ講和条約の調印・発効による主権の回復、日本の国際社会への復帰は、論理的に見て、かかる政体に対する否定と改革抜きにはあり得なかった。(略)

 

 

 

ここに言う「前記諸目的」とは、軍国主義の除去や体制の民主化を具体的には指している。(略)

そうでないのならば、すなわち、大日本帝国の政体=国体に根本的な変更がなく(「毫モ変更セラレナイ」まま!)継続した状態で国際社会に復帰するというのならば、それは戦後のドイツが「第三帝国」であるがまま国際社会に復帰しようというのに等しい。

 

 

言うまでもなく、そのようなことは許されようはずがなかった。「国体は変更された」とする美濃部や宮沢の政府批判は、こうした当然の了解を講和に先立って指摘するものでもあったはずだ。

 

 

▼国体をめぐる奇妙なプロセス

つまり、生じたことの異様さは、次の点にある。すなわち、国会で政府を代表して、国体は「毫モ変更セラレナイ」と明言したのと同一の人物が、サンフランシスコ講和会議では国体が根本的に変更されたことを確認する文書(講和条約)に調印した。

国体は変更されたと同時に護持された。(略)

 

 

 

というのも、すでに見たように、そもそも占領下での主権は移動しようにも日本側(天皇であれ日本国民であれ)に存在しなかった。つまり、「国体の変更」を主張するデモクラットたちは、いまだ日本が主権国家たり得ているという幻想に依拠した。

 

 

 

それに対し、吉田茂ら保守支配層は、「国体と政体」の伝統的二元論のイデオロギーに依拠して「国体不変」を主張したが、このイデオロギーもまた国内でのみ通用する幻想である。

かつ、両者は相互補完的な関係にあった。なぜなら、先述のように、民主化改革がそれなりの成果を収めた(国体が変更された)と対外的に認められたからこそ講和条約が可能となり、国家主権回復(=国体の存続)が確定されたからである。

 

 

 

この奇妙なプロセスは、日本人の主観性の次元での国体は護持された一方、客観的次元での国体(専制君主政体)は変更された、ということでもある。あるいは、日本国民の視角から見れば、客観的次元での国体の変更を受け入れることによって、「国体は護持された」という物語 — おそらくそれは、敗北による衝撃と屈辱を和らげた ― を、主観的に維持することに成功したのであった。」