読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本人とは何か。

「2 文字の創造

◎ 日本文化の源「かな」

(略)

もちろん文字なき文化はあるし、言葉なき思想もありうる。だが「古事記」「万葉集」から「竹取物語」や「源氏物語」「伊勢物語」「平家物語」、さらに歌集・日記類から随筆「徒然草」に至る膨大な「かな古典文学」ともいえるものが創造されなかったら、現代の日本文化は無かったといってよい。

 

 

日本人は「かな」をつくり「かな」が日本文化をつくった。この意味で日本を考える場合、「かなの創造」は、忘れることのできない画期的事件、「かなの創造」がそれ以後の日本に与えた影響は計り知れない。(略)

 

 

 

ヨーロッパ人で「かな」に関心を持ち、それについて最初に記したのはキリシタン宣教師パードレ、バルタザール・カーゴで、彼は書簡の中で漢字とかなの一部を例示し、日本人は漢字を基にして、はるかに理解しやすい便利な文字を創作し、これが一般人に使われ、重立った人々がその上に漢字を知ろうとしていると記している。(略)

 

 

ロドリーゲスがこの膨大な著作を完成したのは、一六三〇年ごろであろうか。ロドリーゲスの著作は、いま読んでも見事なもので、情報化社会などといわれる現代でも、これだけ詳しく日本のことを知っている外国人が果たして何人いるであろうか、と思わせるものである。そこで前記の彼の著作の一章の一部を次に引用させていただこう(岩波版大航海時代叢書 ジョアン・ロドリーゲス「日本教会史・下」による)。

 

 

彼はまず中国人がなぜあのように難しい漢字の学習に専念するかを述べる。それは科挙に合格するためで、「これらの(合格した)人々だけが王国の文治を掌り、王家に属するあらゆる職務と任務および王国の官吏(マジストラード)の仕事を行なうことができる」からであり、そして、「それによって得られる利益と名誉のため」に漢字を一心に学ぶのだが、日本人はそうではないので、「諸宗派の学者を除けば、普通には、俗人の貴族と一般大衆が、シナ人のように大いに精励して文字を学ぶことに専念することはない」。ここに基本的な違いがあると述べている。この「科挙」の有無という日中両文化の基本的な違いは後述しよう。(略)

 

 

 

そして彼が当時の「世俗の書翰や覚書、その他この種のもの」がほとんどひらがなだけであったように記しているのは、正確な観察である。というのは祐筆に書かせた公式書簡などば別だが、私的な手紙では、信長も秀吉も家康も、まるで「かな文字論者」の手紙のようにかなが多いからである。ただ当時は濁点を打たず、漢字は「当て字」だから現代人には相当に読みづらい。(略)

 

 

 

以上は、織豊時代から徳川時代にかけての手紙だが、幕末になっても私的な手紙はほぼ同じようなかな書きで、これは渋沢栄一の千代夫人への手紙にも現れている。ただ女性向けの手紙(前記の家康の手紙はおかち・あちゃ両局宛)は特にかなが多かったといえるが、正式の文書でない内示もまたかなが多い。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本人とは何か。

「◎「骨(かばね)の代」の氏族体制

一体「骨(かばね)」とは何であろうか。それは大体氏族の首長もしくは中心的人物をいうと定義してよいであろう。これは韓国語の「骨」の用法を用いたと見るのが定説で、韓国では「真骨」もしくは「第一骨」といえば王族のこと、「第二骨」といえば貴族のこと、これが日本に伝わり、たとえば「武烈天皇紀」に「百済国守之骨族」という語が見える。(略)

 

 

 

 

そしてこの氏族が土地・人民を所有して半独立国のようになっており、時にはそれらが相争って「倭国の内乱」となるわけだが、その中のおそらく最大に氏族が天皇であり、他の氏族と違う点はおそらく祭儀権を持っていたことであろう。(略)

 

 

そして祭儀権者が亡くなり、この連合が崩壊すると混乱して内乱状態となる。こういう場合、中国から張政のような者が来て、祭儀権者の後盾となって混乱を収束させたものと思われる。この、女帝が祭儀権をもち、皇太子その他が統治権を行使するといった形態は、推古女帝と聖徳太子、皇極女帝と中大兄皇子、その他の例に見られる。(略)

 

 

 

前述のように日本人は元来は姓がなかったと思われる。この点では東南アジアを連想させるが、やがてこの職業その他が姓になっていく。たとえば地方官の国造・県主は和気・君・稲置・村主等の姓となり、また職業・技術・地名等も姓となった。(略)

 

 

 

 

中央の朝廷にはこの種の部が数多くあり、その長が姓を有し、その仕事は世襲であった。日本人の姓が何によって生じたかといえば大体以上がその起源だが、その姓が今まで継承されているわけではない。日本では養子が自由だから、よい世襲権をもつ家に養子に行くこともある。さらにこの氏族の人数が増加すると、苗字が生じてくる。

 

 

元来は、苗字と姓は同じではなく、分家に対する称号で、たとえば藤原家が近衛・一条・二条・九条・鷹司等の苗字を持つようなもの、この場合、正確に言えば「姓は藤原、苗字は近衛」となるが、しだいに苗字が姓のかわりになってしまう。そして武家時代になると各人勝手に姓を名乗る。元来無かったのだから、それらは自由自在で、足利末期には下層民が上層貴族の苗字を名乗るに至る。

 

 

 

話は先に進み過ぎたが、以上のような氏族制は、次第に崩壊せざるを得なかった。(略)

そしてこの弱点が最も強く露呈してきたのは、再び国内を統一し、強力な帝国となった隋・唐が、その勢力を朝鮮半島にのばしてきて、百済から援軍を要請されたときであった。

 

 

 

救援の日本軍は白村江で惨敗して百済は亡びる。次は日本の番ではないかという恐怖は、北九州の防備を厳重にしたことに現れている。(略)

 

 

 

だが六朝の影響の下で、政治より文化を優先させていたこと、そして詩や歌をつくることに大きな価値を置いていたことは、決して無駄ではなかった。「かな」を生み出す、大きな要因になったと思われるからである。」

 

 

 

日本人とは何か。

◎ 津田左右吉博士の卓説

(略)

津田博士は「日本書紀」や「古事記」は「歴史的事件」の記述ではないが、「歴史的事実」を現わしているといわれ、この二つの関連を「源氏物語」を例に説明されている。「源氏物語」は小説で登場人物も事件もすべてフィクションだから「歴史的事件」の記録ではない。

 

 

 

しかしそれは平安朝の貴族の「社会及び思想」がなければ存在し得ない。すなわちこの小説の背後にある「社会及び思想」という「歴史的事実」が示されている。そしてこの関係は「日本書紀」「古事記」も同じだが小説でなく「説話」であると津田博士は主張する。

 

 

ではその背後にどのような「歴史的事実」があったのであろうか。膨大な公判記録の中から、津田博士が指摘している点を箇条書きにしてみよう(一部は要約し、前後の関係を見て敷衍した)。

 

(一) 日本民族のこの島に於いて生活してきた歴史が非常に長いということを考えなければならない。そこで日本民族のこの島に移住して来たのは非常に古い時代であるということ。今日われわれに知られている限りに於いては、日本民族と同じ人種のもの、同じ言語を使っている民族は他にないということ、これだけは事実として明らかなことであります。

 

 

(二) 日本の民族性を考え、また上代の歴史を考えるに最も必要なことが一つあると思います。それは、日本人が遊牧生活をしたことがないということ(と同時に、遊牧民文化・砂漠の文化から影響を受けた形跡はない。日本には家畜はあっても、牧畜と言えるものはなかったらしい)。

 

 

 

(三) どうして生活をしたかと申しまするに、その程度は幼稚でありましょうけれども農業生活をして居ったと考えられます(もちろん狩猟・漁撈・採集は併用された)。文化の程度は上代に於いては無論低いのであります。(いわば生産性が低いので)一定のところに安んじて仕事をしなければ衣食することができないのであります。

 

 

(四)(以上のほかに)なお日本が島国であるということが一つの大きな事実であります。(言うまでもないが太古に於いては海を越えての大挙移動は不可能)したがって異民族との争闘ということがありませんでした。(略)

 

 

 

上代の人間に於いて語り草となっていることは、やはり戦争であります。子供が戦争の話を喜ぶと同じように、上代人の一番面白く思うことはやはり戦争の話であります。

ですから、どこの民族の上代の歴史を見ましても、あるいは叙事詩のような文学上の作品を見ましても、その大部分は戦争の話であります。

戦争の話ならば多くの人が面白くそれを語り伝えるのであります。

 

 

 

上代人に於いては何か変わった事件でなくては語り伝えるということは少ないのであります。

ところが、わが国の上代に於いては余り語り伝えることがないのであります。

ないということは、平和であるということであります。昔のことがわからなくなったということは、何であるかというと、平和な生活をして来たということ、戦争が少なかったということであります。

 

 

 

皇室がいかにして国家を統一遊ばされたかということの話が余り伝わらなかったということも、やはり武力をもって、すなわち戦争の手段を以て圧伏をせらるるということもなかった。平和な上代に於いて、しだいしだいに皇室の御威徳が拡がっていった、こういう状態であるとしますれば、語り伝えるべき著しい異変というものがありませぬ。

 

 

異変がないということは、すなわち極めて平和の間にそういう国家の統一が行われたということになるのであります。

このことは日本の上代史、日本の国家の起源を考えるに当たって極めて重要なことと考えます。」(略)

 

 

 

では大和朝廷はこういった政治的小勢力を次々に打倒して日本を統一国家にしたのであろうか。そうは考えられず、何らかの文化的優位性をもって、他の政治的小勢力を服属させて行ったのであろうと津田博士はいわれる。それは「骨の代」の体制にそのまま現れている。(略)

 

 

以上のことは小戦闘がなかったということではない。しかし韓国の成立史と明らかに違う。(略)

六世紀末に隋が高句麗の征討をはじめ、ついで唐もこれを行なったが共に失敗した。ついで唐は新羅と協力して六六〇年に百済を滅し、つづいて六六八年に高句麗を滅したが、両国が滅びると新羅は唐と戦って百済高句麗の故地を占領し、ここに半島を統一した国家が形成された。

 

 

津田左右吉博士がいわれているのは、このような「国家形成史」がなかったということ、それが「制なき時代」が出現する前提であったろう。

以上のようにして、ゆるやかな文化的統合体としての日本が形成され、それがそのまま統治体制となったのが「骨の代」であろう。」

 

 

 

 

 

 

 

日本人とは何か。

「◎人類史を駆け抜けてきた民族

「日本人」—— 外国人はこの名称を付された民族に、「何か理解しかねるものがある」という感じを持つことがあるらしい。その感じから出たらしい質問に接した場合、私は大体、次のように答える。

 

 

「日本人は東アジアの最後進民族です。先進・後進を何によって決めるか、どのような尺度を採用するかは相当にむずかしい問題でしょうが、たとえば数学ですね。中国人は偉大な民族で、西暦紀元ゼロ年ごろ、すでに代数の初歩を解いていたのですが、当時の日本人ときたら、やっと水稲栽培の技術が全国的に広がったらしいという段階、まだ自らの文字も持たず、統一国家も形成しておらず、どうやら石器時代から脱却したらしい状態です。

 

 

 

 

この水稲栽培すなわち農業に不可欠なのが正確な暦ですが、ヨーロッパがメトン法(十九年閏の法)を発見したのが紀元前四三二年、一方中国人は紀元前六〇〇年ごろにすでにこれを発見していました。中国人は当時の超先進民族です。そのころの日本ですか?縄文後期でまだ石器時代、もちろん農業も知りません。(略)

 

 

 

 

ではこの縄文人とはいかなる民族なのか。この問いには長い間、解答がなかったが、多くの人は中国人・韓国人と同じ祖先をもつ民族だと考えていた。(略)

ところが最近、京大名誉教授日沼頼夫博士が興味深い説を提唱した。氏は生物学者で京大ウイルス研究所の前所長、歴史学者でも考古学者でもない。

 

 

 

日沼教授はATLウイルスのキャリアが、東アジアでは日本人にしかいないこと、日本以外では沿岸州からサハリンに分散している少数民族に発見されているにすぎず、中国・韓国にはいかに調査しても全くいないことを発見した。

 

 

 

ATLウイルスあどのようなウイルスかの説明は省く。そしてこれは母から子へと一〇〇パーセント伝わるわけでなく、大体四〇パーセントぐらいしか伝わらない。そこで人口が増えればキャリアの数はしだいに少なくなるわけだが、近親部族外婚による混血が進めば、ますます減少していく。

 

 

白人は今までの調査ではゼロ、中国・韓国もゼロとすると、東アジアではなぜ日本人にだけATLウイルスのキャリアがいるのか、これは日本人の先祖を考える場合、興味深い問題である。(略)」

 

 

 

◎ 中国の史書に現れた日本

(略)

紀元五七年から二六六年までの約二百年間に、中国にわずかに記録をとどめている当時の日本人はどのような生活をしていたのであろうか。それがある程度わかるのが樋口清之博士の発掘された「登呂遺跡」である。この遺跡の年代について細かい点では諸説あるが、中国の記録に日本が登場する前記の二百年かそれ以前であることは、ほぼまちがいないと言ってよい。

(略)

 

 

 

 

樋口博士は、ここに日本文化の原点があると次のように言われる。「……結局、水田というものは、急に一人が思いついて鍬や鋤一本でできるものでなく、大勢の共同労働と。その共通技術と、統一組織の中ではじめて成功するもので、日本が早く水稲栽培の文化で国家成立に成功したのは、これが出来得たためだと強調したいのである。

 

 

 

そのためには社会的に共同体をいじできる組織とその組織を機能させる指導力が生育していて、共通目的で共通労働が営まれなければならないわけである」と。

いわば共同体を形成して生きる以外に、生きる方法がない。そこで祭祀もまた「共同体の村落共同祭祀として個人の行事ではなく村落や地域の行事となって行った」。そういう共同体は共通の利害で連合する。これは後述する後代の惣村が与郷として団結するのに似た形かもしれない。

 

 

 

 

それら与郷が利害を異にして争う場合もあるであろうが、卑弥呼のようなシャーマンを中心に宗教連合的にゆるやかな統一を保っているのが普通の状態であったと見るべきであろう。稲作民族は定着して動かないのが普通であり、遊牧民族のモンゴルのような大帝国を建てた例は、史上にその例がない。(略)

 

 

 

伊勢神宮の内宮は「日本書紀」によれば垂仁天皇のとき現在の地に遷宮がなされたといわれる。興味深いのはこの神宮が、毎朝、火鑽具で火を起こしているが、この形式は登呂遺跡で発掘されたものと同じだということである。そして自らの田を三丁歩ほど持ち、これに稲を植え、穂刈をして高床式の倉におさめ、毎朝これをうすで脱穀する。

 

 

 

米は現在の日本で用いられているような「改良品種」ではなく、黒米・赤米がまじっている。また塩も自らの塩田で、「万葉集」に出てくるような堅塩をつくる。そして神饌を盛る土器も昔の通りに造られている。

この神饌の基本は御飯と塩と水、鰹節、鯛(夏は干物)、昆布、荒布などの海産物と野菜・果物、そして酒で、朝夕二回捧げられる。

 

 

 

簡単にいうと一部のものを除くと殆ど自給自足で古代のままである。これを大宮司以下が行っており、彼らが行っているのは祭祀であって「営農」ではない。そこでこの人たちの用いる農具や工具さらに生活用器は、みな祭儀用器だということになる。

 

 

 

しかしそれは、決して、年に一回か二回、「お祭りの時」だけに用いられているのでなく、毎日のように行われているのである。(略)

おそらく伊勢神宮で現在行われている以上に、当時の農民の日々の生活と密接に関連した作業であったであろう。そしてそれを行ないつつ祈念することによって、自己の支配下の水田に豊饒がもたらされると信じられていたのであろう。(略)

 

 

 

ここで一つの疑問が生ずる。それほど呉と関係が深いならなぜ「呉志」に「倭人伝」がなく、北方の「魏志」にのみあるのか、と。言うまでもなく当時は「三国志」の時代、魏・呉・蜀の君主みな皇帝と称していたが、魏はもちろんそれは認めなかった。魏は蜀漢を降伏させ(二六三年)、ついで魏にかわった晋が呉を滅ぼすと(二八〇年)、倭人が呉に朝貢したという記録はすべて削除したのではないかといわれる。(略)」

 

 

 

 

 

 

日本人とは何か。

〇 山本七平著「日本人とは何か。ー 神話の世界から近代まで、その行動原理を探るー」を読み始めました。

読み始めたのはもうずいぶん前です。山本氏の著作は古文書等を挙げて論じているものが多く、その難しさに私の頭はついて行けません。

そんなわけで、上巻を読んだところで、ひと休みしています。

もう、このままギブアップするかもしれませんが、何か所か、とても印象深かった所もあるので、その部分だけでも、メモしておきたいと思います。

 

引用部分は「」で、感想は〇でメモします。

 

「◎ 日本の独創性

(略)

「すると中国から模倣しなかったものがあったんですか」

「そうですなあ。科挙、宦官、族外婚、一夫多妻、姓、冊封、天命という思想とそれに基づく易姓革命、さらにそして少し後代なら纏足がなく、日本だけにあるのがかな、女帝(女王)、幕府、武士、紋章ですかな。

 

 

後になると漢学・蘭学と平気で並べており、どこからでも聴講しています。それから料理と葬式と墓ですか。前にある中国人から、日本料理が中国と全く無関係なのに驚いたと言われました。豆腐や味噌は中国伝来ですが、料理そのものの基本は全く違うというのです。さらに彼は昭和天皇の御大葬の簡素さに驚き、歴代の御陵が中国と余りに違うのに驚いていました。違いはそのほかにもありますが……。」(略)」

 

 

「(略)

韓国人には族譜(または世譜)という膨大な系図があります。これは日本のいわゆる系図からは想像できない膨大なもので、釜山大学の金日坤教授に、先生のところは何冊ぐらいとうかがいましたら、何と四十冊、そして国中の系図の複本が韓国の国会図書館にあるそうで、こういう国は世界で韓国だけだろうと言っておられました。

 

 

 

この同一系図の中に入っている者同士は結婚できない。簡単に言えば血縁の範囲が非常に広くて、その血縁内では結婚できない。そこで族外婚と……」(略)

 

 

 

「では日本人の姓や結婚原則はどうなっていたのですか」

「姓のあった人間もいましたが、殆ど無かったわけで、簡単に言えば名前だけです。これも必ずしも珍しくなく、インドネシアがそうです。スカルノスカルノだけ、スハルトスハルトだけ。タイもそうだったのが、イギリスの影響で姓を作ったそうです。

 

 

 

これを父系姓でも母系姓でもない双系姓社会とする学者がいますが、日本もこの傾向が強かったようで、この点では東アジアの大陸的文化より、東南アジア系と言えるかもしれません。

タイがイギリスの影響を受けたように、先進大国の影響はどこの国も受けますが、韓国人はきまじめに中国文化を摂取して生命も中国式にしたんでしょう。日本人はそんなにまじめじゃないですな。

 

 

『天命思想抜きで科挙抜き律令制』なんてやっていたのですから。(略)」

 

 

 

「◎「骨・職・名」区分の新しさ

伊達千広(一八〇二ー一八七七年)は紀州藩士、有名な陸奥宗光の父であり、藩内の政争にまきこまれて九年の蟄居を強いられ、後に赦されてから京都に出て公武合体に奔走したが失敗、帰国・閉居の身になるが、明治維新後に赦され、和歌と禅にひたる晩年を送った。(略)

 

 

彼はあるがままに日本の歴史を見、徳川時代に至るまでを「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名の代」と三つに区分した。今の言葉になおせば「氏族制の時代」「律令制の時代」「幕府制の時代」ということになろう。(略)

 

 

 

そして当然のことだが、日本の歴史は日本の基準で記さざるを得ず、中国の基準をもってきても、西欧の基準をもってきても、おかしなことになってしまう。そこで本書はこの「大勢三転考」の基準で記しつつ日本文化の特性へ進もうと思う。(略)」

 

 

 

 

パンとサーカス

〇 昨日(8月29日)で新聞連載小説「パンとサーカス」が完結しました。

私の頭ではついて行けないほど、複雑で奥行きが深く、絶望的な気持ちになることもありながら、読みました。でも、最後は、少しホッとできる終わり方で良かったです。

 

7月21日と22日の記事を載せておきたいと思います。

「 344回

法廷でその録音内容が再生されたが、「代金は現金で払うので、指定の場所まで取りに来てくれ」という空也の声が残されていた。これは空也の事件への関与を示す決定的な証拠となった。検察は法廷での証言の見返りに別件での罪を軽減する取引を持ち掛け、ボンビーノが応じたに違いない。

 

 

南塚はボンビーノが空也を売る想定はしておらず、不覚を取った。この奇襲によって、空也の無罪を勝ち取る可能性は実質、失われた。

空也には実刑判決の覚悟は出来ていた。というより、太郎が無期懲役を宣告されたのに、自分が無罪放免になるわけにはいかないとさえ思っていた。法廷では寵児や弁護人の指示に従い、単に暗殺やテロを空想しただけだという主張を続けていたが、自分が確信犯として、内乱を企て、実行を指令したのは紛れもない事実である。

 

 

世相が変化しつつあるのは空也が実現したからであって、この件に自分が関与していないということはあり得ない。内乱は成功すれば、罪には問われないはずだが、その条件を満たすためには自分が支配者になり、自らを免罪するほかない。それなのに、こうして訴追され、裁判を受け、「自分は関わっていない」と無罪を主張すること自体が間違っている。

 

 

 

誰かが自分の後追いをし、内乱を完遂しなければならないのだ。革命成就の暁に自分は晴れて釈放され、英雄として凱旋する。自分はどれくらい冬眠させられることになるのか?それは弁護人や内乱を引き継ぐ人々次第だ。

 

 

検察官の論告求刑も弁護人の最終弁論も上の空で聞いていた。空也の心はここにはなく、イソノミアに置いてきた。あの仮想都市の中にいる限り、自分は英雄で居られる。あいにく体の自由は奪われているが、心は不愉快な現実から遠く離れて自在に飛び廻ることができる。

 

 

 

どうせ今は誰もがウイルス感染を恐れ、自分を狭い部屋に閉じ込め、他人との接触を忌避しているのだから、娑婆にいようが、刑務所にいようが、大した違いはない。

空也は特に何もいいたいことはなかったが、裁判官に最終陳述を促されると、証言台に立ち、自らの心境を吐露し始めた。

 

 

―—— 私はどんな悪事を働いたのか?私は一体何がしたかったのか?逮捕されてから、幾度となくそのことを考えてきましたが、正直、私には全く罪悪感というものがなく、何を悔い改めなければならないのかわかりません。

 

 

 

345回

 

―—— 私は自国党議員の汚職に加担したり、官邸の下請け仕事として、政敵の失脚を画策したことがありますが、その時の方が強い罪悪感を抱いたのは事実です。同時に私はこうも思った。権力をもつ者はなぜかくも横暴で、節操がないのか、と。

 

 

 

税金、公金を私物化し、使途も明らかにせず無駄遣いをする一方で、福祉を切り捨て、弱者、貧者をとことん追い詰める。違法などいくらやっても罪を問われない、そんな無法者たちに権力を行使させた責任は検察官、裁判官のあなた方にもあります。そして、特に理由もなく彼らを支持し、服従してきた無知で、無関心な有権者もあなた方と同様に罪深い。

 

 

 

彼らは誰も傷つけない、騙したり、裏切ったりせず礼儀正しく、おとなしい。彼らの沈黙の同意によって、腐敗政治がいつまでも続いたのです。私は無法者が正義の裁きを受ける世界を空想したに過ぎません。空想しかせず、実際に行動しようとしなかった。それこそが私の罪なのです。しかし、私の空想に基づき、世直しを実行する人が現れてくれた。

 

 

 

山田太郎、池上学ほかの面々は、権力の服従者に過ぎないあなた方に代わり、この国で最も権力を奮う売国奴たちを罰してくれたのです。彼らのお陰で、私の罪は軽くなるのです。もし、世直しの計画を具体的に練ったことが罪になるのなら、勝手に刑を宣告するがいい。あなた方に裁かれても、私は痛くも痒くもない。

 

 

 

しかし、私の空想から始まった一連の世直しの動きは今後、市民の暗黙の連帯によってさらに広がっていくでしょう。もう誰にも止めることは出来ない。それこそが私の救いになるのです。私を刑務所に送っても、早晩、彼らが私を解放してくれるでしょう。その時は、あなた方は今の地位も名誉も失い、路頭に迷うことになるのでお覚悟を。終わります。

 

 

 

 

空也の最終陳述を聞いていた傍聴人の間からは自然に拍手が起きた。裁判官は木槌を叩いて静粛を求め、判決を一週間後に言い渡すと告げ、閉廷した。

傍聴人の中にはヤンバル・クイナ始め、イソノミアの住人達が七人ほど紛れていて、その夜のうちにネット上には空也の最終陳述の書き起こしが広まり、「空也祭り」の様相を呈した。

 

 

 

無期懲役判決を受けた元ホームレスの実行犯山田太郎もまた英雄扱いを受け、イソノミアの駅前で託宣を口走っているホームレスは彼だという噂が駆け巡った。」

 

〇ここまでが、7月21日22日の記事です。

最後に昨日(382回)の最後の言葉をメモしておきます。

 

「これにて完結。長きに亘るご愛読に深く感謝いたします。現実の政治にも大きな変化が訪れますように。乱世にあっても、人々の良心と愛が報われますように。島田雅彦

 

〇本当に…… 現実の政治が少しずつでも良い方向に変化していきますように。と心から共感しながら読み終えました。

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「3 再び「お言葉」をめぐって

▼7歴史の転換と「天皇の言葉」

本書で見てきた「戦後の国体」の崩壊過程における危機という文脈は、第一章で論じた、今上天皇による異例のメッセージ、「お言葉」が発せられた文脈でもある。だからこそ、あのメッセージを見聞きした時、筆者は衝撃を受けた。

 

 

それが発せられた文脈と、そこに込められた意図を丹念に追ってゆくならば、「お言葉」は、この国の歴史に何度か刻印されている、天皇が発する、歴史の転換を画する言葉となりうるものであると、筆者は受け取った。つまり、「お言葉」は、古くは後醍醐天皇による倒幕の綸旨や、より新しくは孝明天皇による攘夷決行の命令、明治天皇による五箇条の御誓文、そして昭和天皇玉音放送といった系譜に連なるものである。そのような言葉を自分の耳で聞くことがあろうとは、それまで夢にも思わなかった。

 

 

 

しかし同時に、すでに述べたように、この思い切った行為の必然性は、それまで筆者が考えてきたことから、明らかであった。腐朽した「戦後の国体」が国家と社会、そして国民の精神をも破綻へと導きつつある時、本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出たのである。

 

 

 

この事態が逆説的に見えるのは、起きた出来事は「天皇による天皇制批判」であるからだ。「象徴」による国民統合作用が繰り返し言及されたことによって、われわれは自問せざるを得なくなったのである。すなわち、アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか、という問いをである。もし仮に、日本人の答えが「それでいいのだ」というものであるのなら、それは天皇の祈りは無用であるとの宣告にほかならない。われわれがそう答えるならば、天皇(および想定される地位継承者たち)はその地位と職務を全うする義務を自らに課しつづけるであろうか。それは甚だ疑問である。

 

 

 

▼「お言葉」をどう受け止めるか

さて、以上のような「お言葉」の解釈は、その内容に政治的意義を読み取ることによって「天皇の政治利用」につながるとの批判を招くことが予想される。またあるいは、天皇の発言に霊性に関わる次元を読み込むことは、「天皇権威主義的な神格化」につながるという批判も予想される。

 

 

 

筆者は、自らの展開してきた「お言葉」の解釈が、現実政治にあからさまに関係するという意味で政治的であること、また「お言葉」にある種の霊的権威を認めていることを決して否定はしない。

しかしながら同時に、筆者は「尊王絶対」や「承詔必謹」を口にする気はさらさらない。なぜなら、かかる解釈をあえて公表する最大の動機は、今上天皇の今回の決断に対する人間としてんぼ共感と敬意であるからだ。

 

 

 

その共感とは、政治を越えた、あるいは政治以前の次元のものであり、天皇の「私は象徴天皇とはかくあるべきものと考え、実践してきました。皆さんにもよく考えて欲しいと思います」という呼び掛けに対して応答することを筆者に促すもんぼである。応答せねばならないと感じたのは、先にも述べた通り、「お言葉」を読み上げたあの常のごとく穏やかな姿には、同時に烈しさが滲み出ていたからである。

 

 

それは、闘う人間の烈しさだ。「この人は、何かと闘っており、その闘いには義がある」— そう確信した時、不条理と闘うすべての人に対して筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。ならば、筆者がそこに立ち止まって出来ることは、その「何か」を能う限り明確に提示することであった。

 

 

 

「お言葉」が歴史の転換を画するものでありうるということは、その可能性を持つということ、言い換えれば、潜在的にそうであるにすぎない。その潜在性・可能性を現実態に転化することができるのは、民衆の力だけである。

 

 

民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である。」

 

〇 ここで、この「国体論」は終わっています。

著者がこの本を書いた動機について、

「不条理と闘うすべての人に対して筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。ならば、筆者がそこに立ち止まって出来ることは、その「何か」を能う限り明確に提示することであった」

 と説明している個所を読み、胸が熱くなりました。

 

 

そして、「民主主義」という言葉を聞く時、いつもこのエピソードを思い出します。

以前取り上げた、河合隼雄母性社会日本の病理」の中にあった河合氏自身の体験談です。

「大切なことはこのようなアレンジメントが存在すること。そして、それにかかわった人たちがアレンジするものとしてではなく、渦中において精一杯自己を主張し、正直に行動することによってのみ、そこに一つのアレンジメントが構成され、その「意味」を行為を通じて把握し得るということであろう。」

 

 

〇 あと、もう一点。

この本を読みながら、ずっと引っかかっているモヤモヤがあります。それは、アメリカの「属国」のようになっている私たちの国を、私はどうしたいのだろう…という問いです。

本来なら、一刻も早く属国であることから脱し、自分たちの国の問題を自分たちで解決する能力と態勢を持ちたい。誇り高い日本を取り戻したい。と願うのが本当だろうとは思います。

 

でも、以前も書きましたが、あの太平洋戦争で負けたことで、今の民主主義国日本が

あるのです。戦争で負けなければ、おそらく戦時中のように、今の北朝鮮のように、一部の特権階級の人々(いまだ人間を幸福にしない日本というシステムの「管理者」たち)が、自分たちに都合の良い国家にしていたと思います。

 

アメリカが支配して、その顔色を伺う属国だったからこそ、今の「日本会議」のような勢力は、大っぴらには活動できなかったのだと思います。それを思うと、本当にアメリカの属国から脱した時、どんな国になってしまうのが、恐ろしくもなります。

 

本当に情けないことだと思います。

 

でも、私たちには、あの安倍政権も今の菅政権も変えることが出来なかった、出来ない、という現実があります。あれほどの犯罪を犯している総理大臣を引きずり下ろすことが出来ない、こんな情けないコロナ対策しかしない菅政権しか持てない私たち日本国民なのです。

 

こんな私たちに、真っ当な民主主義を作り上げられるでしょうか。

だとしたら、下々の人間、(少なくとも私のような一般庶民は)せめてアメリカの属国で、例え建前だけでも、民主主義が掲げられている国の方がマシだ、と感じるのですが。

 

これは、私の妄想ですが、あの昭和天皇だって、おそらく私たちの国の中の、

今の「日本会議」のような勢力、話が通じない議論も出来ないような人々には、アメリカが押さえつけてくれる以外、どうにもならない、と思ったのではないでしょうか。