「私たちは大抵、「私は一度も絶望したことはありません」と主張しながら、
信仰の大冒険にはほど遠くみえる無気力な生活を送っている信者を
おそらく知っていることでしょう。こういう人々とはちがって、古来最も
大きな役割を果たした信仰者たちは、自分が疑いと信仰との間を
行ったり来たりして、重苦しい心のたたかいでめちゃめちゃにかき裂かれて
いるということを告白しています。(略)彼らは天に向かって反抗し、
あまりにも要求の多すぎる神にもうこれ以上自分を適応させることは
できないと拒否し、神と格闘したそののちに神と和解した人々なのです。
神は自分に反抗する人人を愛したもうのです。
これらの人物は神との格闘を通してこそ成熟し得たのです。」
「しかし、こういった定年後の時間をバラ色のものと見るか、灰色のものと
とらえるかの相違は、まったく別のことに基づいているのです。
退職を最も嘆く人々は一般に、それ以前には仕事について最も多く
不平をいい、仕事から解放されることに憧れていた人々なのです!
つまりこれは心の持ち方の問題なのであり、その人が真に成熟しているかいないかの
問題なのです。真の幸福は、一つの真面目な問いを提出するものなのですから。
<何が人生の意味なのか?>という問いを。」
「それでもなお、何とかしてこの転機の主な特徴をとらえようとするなら、
転機はかならず一つの出会いであることに気付くことでしょう。
それはある観念との出会いである場合もあれば、一人の人間との出会いで
あることもあります。いずれにせよそれは、それに向かい合った時、当の人間は
その相手に対して中立でありつづけることができなくなり、いやおうなしに
態度決定をせまられ、責任を引き受けることが義務だと感じずにはいられなく
なるような、そういう対象との出会いです。」
「私は神を、子供のころすでに知りましたが、それはまだ非常に素朴な
知り方でした。それでも私は、私をそのように導いて下さった人を
心から祝福せずにはいられません。(略)それ以来、イエス・キリストは、
日々私の見えざる道連れとなり、私の成功と失敗の証人となり、喜びと
悩みの時の信頼するに値する親友となって下さいました。
このイエスと共なる人生において、神の認識は限りなく確実なものとなり、
詳しいものとなっていきます。私がまだこれから望むことのできるすべては、
私の行為の時期が終わった時、私がこの神についての豊かな認識をさらに
増し続けることができますように、ということです。」