〇アーレントがコールリッジの言葉として紹介している文章、以前もメモしましたが
もう一度、書きます。
「存在それ自体、存在そのものだけ、まさに存在するというそのこと、それを考えるようにと精神を高めたことがあるか。考えのたけを込めて「存在する」と言ったことがあるか。目の前の人に対してであろうが、花であろうが、一粒の砂であろうが、
その瞬間におかまいなしに― つまり、存在しているあれこれのあり方にはとらわれずに。
ここに到達したのならば、神秘の存在を感じ取っているのであり、それが汝の霊を
畏怖と驚異の内に根付かせているのだ。「何もない!」とか「何もないときがあった!」という言葉そのものが自己矛盾だ。我々の内部にはこういう命題をはねのけるようなものがあり、まるでそれ自体が永遠の権利をもって事実に対抗する証拠になっているかのごとき充溢した瞬間的な光を伴ったものである。
それゆえ、無いことは不可能であり、存在することは不可解である。絶対的存在についての、この直感を習得してしまえば、同じようにして次のことも習得したことになる。太古の昔に高貴な精神を、選ばれし人を、聖なる畏怖の心持でとらえたのは、
まさにこのことであり、これ以外のことではなかった、と。まさにこのことこそが、
かの人々をして、個としての存在よりもたとえようもなく大きなものを自らの内に
感じ取らせたのであった。」(コールリッジ)
実は、ヤスパースの「理性と実存」を読んで私の中に芽生えたのが、この感覚です。
ヤスパースは確か、「実存に立ち出でる」という言葉を使っていたと思います。
(記憶が違っているかもしれませんが…。)
そして、繰り返し「包括者」という言葉を使いました。
「包括者」はいつしか私の中で「神」になりました。
そして、私にとって宗教は軽蔑すべきものではなく、生きる根源にかかわる問題に
なりました。
そんなわけで、私はその後もずっとヤスパースには関心があったのですが、
なんといっても、難しい哲学書など、なかなか読めず、ある時古本屋で買った
ヤスパース選集も、ただ持ってるだけ、いつか読もうと思ってるだけ、の本になっていました。
という所に、私としては、とても不思議なめぐりあわせを感じます。
ヤスパースとは、19歳で巡り合いました。
今、薄い本ですが、「哲学的自伝」を読んでいます。
こんなに時間がかかったけれど、読むことができて、よかったと思います。