読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史 下

「第十八章 国家と市場経済がもたらした世界平和  ホモ・サピエンスの必要性に応じて世界が造り替えられるにつれて、動植物の生息環境は破壊され、多くの種が絶滅した。(略)


今日、地球上の大陸には70億近くものサピエンスが暮らしている。全員を巨大な秤に載せたとしたら、その総量はおよそ三億トンにもなる。もし乳牛やブタ、ヒツジ、ニワトリなど、人類が農場で飼育している家畜を、さらに巨大な秤に全て載せたとしたら、その重量は約7億トンになるだろう。


対象的に、ヤマアラシやペンギンからゾウやクジラまで、残存する大型の野生動物の総重量は、一億トンに満たない。児童書や図画やテレビ画面には、今も頻繁にキリンやオオカミ、チンパンジーが登場ずるが、現実の世界で生き残っているのはごく少数だ。


世界には15億頭の畜牛がいるのに対して、キリンは八万頭ほどだ。四億頭の飼い犬に対して、オオカミは20万頭しかいない。チンパンジーがわずか25万頭であるのに対して、人は何十億人にものぼる。

人類はまさに世界を征服したのだ。


生態圏の悪化は、資源不足とは違う。(略)


実のところ、生態系の大きな混乱は、ホモ・サピエンス自体の存続を脅かしかねない。地球温暖化や海面上昇、広範な汚染のせいで、地球が私たちの種にとって住みにくい場所になる恐れもあり、結果として将来、人間の力と、人間が誘発した自然災害との間で果てしない鍔迫り合いが繰り広げられることになるかもしれない。」


「<近代の時間>  これほど多くのサピエンスは、しだいに自然の気まぐれに振り回されなくなる一方で、近代産業と政府の命令にはかつてないほど支配されるに至った。(略)


多くの変化の一例として、伝統的な農業のリズムが画一的で正確な産業活動のスケジュールに置き換わったことが挙げられる。


伝統的な農業は、自然の時間のサイクルと動植物本来の生育サイクルに依存していた。たいていの社会では、時間を正確に計測することができなかったし、時間の計測にそれほど関心もなかった。時計も時間表もなく、太陽の動きと植物の成長サイクルにのみ従って、世の中は回っていた。」


〇モモの「時間泥棒」を思い出しました。


産業革命によって、時間表と製造ラインは、人間のほぼあらゆる活動の定型になった。」



「鉄道は従来の馬車よりも格段に速かったので、各地の時刻の呆れるほどの不統一は、大変な頭痛の種となった。そこでイギリスの鉄道会社各社は、1849年に一堂に会して相談し、以後すべての鉄道時刻表は、リヴァプールマンチェスターグラスゴーなどの現地時間ではなく、グリニッジ天文台の時刻に準ずることで合意した。(略)

歴史上初めて、一国が国内標準時を導入し、各地の時刻や日の入りまでのサイクルではなく、人為的な時刻に従って暮らすことを国民に義務づけたのだ。」



「とはいえ以上のような大変動もみな、これまでに人類に降りかかったうちで最も重大な社会変革と比べると、影が薄くなる。その社会変革とは、家族と地域コミュニティの崩壊および、それに取って代わる国家と市場の台頭だ。(略)

ところが産業革命は、わずか二世紀あまりの間に、この基本構成要素をばらばらに分解してのけた。そして、伝統的に家族やコミュニティが果たしてきた役割の大部分は、国家と市場の手に移った。」


「<家族とコミュニティの崩壊> また、家族は福祉制度であり、医療制度であり、教育制度であり、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、ラジオ・テレビ・新聞であり、銀行であり、警察でさえあった。」



「コミュニティは、地元の伝統と互恵制度に基づいて、救済の手を差し伸べた。多くの場合、それは自由市場の需要と供給の法則とは大きく異なっていた。昔ながらの中世のコミュニティでは、助けを必要とする隣人がいれば、見返りの報酬など期待せずに、家を建てたり、ヒツジの番をしたりするのに手を貸した。」


「親やコミュニティの長老たちは、若い世代が国民主義的な教育制度に洗脳されたり、軍隊に徴収されたり、拠り所のない都市のプロレタリアートになったりするのを、むざむざと見過ごそうとはしなかった。

そのうち国家や市場は、強大化する自らの力を使って家族やコミュニティの絆を弱めた。国家は警察官を派遣して、家族による復讐を禁止し、それに代えて裁判所による判決を導入した。

市場は行商人を送り込んで、地元の積年の伝統を一掃し、たえず変化し続ける商業の方式に置き換えた。だが、それだけでは足りなかった。家族やコミュニティの力を本当の意味で打ち砕くためには、敵方の一部を味方に引き入れる必要があった。


そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々の持ち掛けた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。」


〇う~~~ん… これは、国家や市場の「意図的な策略」だったかのように言われていますが、私はずっと人間の「わがまま」のせいでそうなっていると思ってました。

人間は、多少なりともそれで食べて暮らしていけるようになったら、そっちの方向へ行ってしまうものなんだと。私自身も、ずっと「個人」になりたかった。世間の目を気にするのが鬱陶しかったし、親や親せきの目も嫌だった。

でも、それで思い出すのは、このハラリ氏もどこかで書いていましたが、「子育てに関するあれこれ」はどれも「非常に不快な作業」なのだけれど、そこから得られる満足感や「幸せ」はとても大きいと。(言葉は違っています。もう少したったら、出てくると思いますので、正確な文章を載せます。)


つまり、「不快な状況」でも幸せにつながるものがあると。

それを知らない人はたくさんいて、単純に快楽や楽の方向へ行ってしまうと、その一瞬は確かに良いのですが、何か常に満ち足りないものを抱えている状態になるのが、
人間なのだというようなことを言っていたと思います。

問題は、ここです。

世の中には、「賢人」と「愚者」がいる。
というより、成長過程で、まだ知らない人と、長くいろいろな経験をして知ってる人がいる。

その時、もし「賢者」の言説に聞き従う習慣があれば、かなり人間社会も劣化しないで、継続できると思うのです。

逆に、「愚者」が権力を持ち、民衆に「快楽や楽」の道を勧めるとき、社会は恐ろしいことになると思います。