読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

東洋的な見方

「<東洋的見方  1961年>  言葉に出すと、何もかも抽象化し概念化し、一般化する憂いがある。禅はこれを嫌う。それで禅は言葉に訴えることを避ける。(略)しかし言葉は人間の専売特許で、一概に、これを斥けるわけにいかぬ。それゆえ、禅が言葉で伝えられなければならぬ時には、禅特有の表現法を用いる。」

〇言葉にするとどうしても違ってしまう…という感覚はとてもよくわかります。そして結局、わかる人にはわかってもらえるだろうけど、わからない人には、どれほど言葉を尽くしても分かってはもらえないだろう、という所に行きつくのもわかります。

それで、禅特有の表現法になるのかな、と思います。

でも、、、 です。これでは多分、社会問題をみんなで解決しなければならない等の時には、困るんじゃないか?と思いますが。
一人で生き方を模索して、自分はこれで行く…という時にはこのやり方でもいいと思います。
でも、みんなで一緒によい社会を作ろうとするときにはどうするんでしょう。


「東洋・西洋というと、漠然としたことになるが、話の都合が良いから分けておく。東洋的見方または考え方の西洋のと相違する一大要点はこうである。西洋では物が二つに分かれてからを基礎として考え進む。

東洋はその反対で、二つに分かれぬ先から踏み出す。」


「二つに分かれてくると、相対の世界、対向の世界、争いの世界、力の世界などというものが、次から次へと起こってくる。西洋に科学や哲学が、東洋に優って発達し、したがって技術の面にも、法律的組織の面にも、著しい進捗を見るのは、いずれも個に対して異常な好奇心を持っているからである。

東洋はこの点において大いに学ばねばならぬ。(略)自ら動き出ることの代わりに、他からの脅迫感を抱くことになる。たとい無意識にしても、そのような感じは、不断あるにきまっている。

この点から見て、分極した対抗の世界には必至とか必然とかいうものがあるが、絶対自由は決して見られぬ。仏教ではこれを業の世界、因果の世界という。

われらは業繋(ごつけ)にあえぐ有情である。

近ごろは何かの関係でよく「自由」という文字を見るが、生死業苦の世界に居るかぎり、自由なるものはないのだ。いずれも必然性ばかりである。」


「西洋的な物の見方からすると、科学は人間をしてますます科学的、物理的、化学的産物にほかならぬようにするにきまっている。世界全般がすでに人間に関する一切の事業を工業化し、機械化し、概念化し、平等化し、組織化しおわらんとしている。

オルウェルやハックスレーなどの考えている社会は、予想するより、もっと早く実現するのかもしれぬ。(略)

ここで西洋式考え方、行り方(やりかた)の行き詰まりを看取せざるをえないのである。」

〇「みんなでより良い社会を作りましょう」などと議論を積み上げ、どんどん合理的に考えて行った結果が、今の「行き詰まり」の社会ということになるのだろうか。

「なぜ、西洋的に見たり考えたり行動したりしてゆくと、行き詰まりを見なくてはならないかというと、人間の生きている世界は、五官で縛られたり、分別識で規定せられる外に、今一つ別の世界があるのである。これを明らかにしておかぬと、人間は生きてゆけぬのである。」


「数と不即不離の関係に立っている禅の世界を知らぬと、人間としての本当の生涯は送られぬ。が、その行き詰まりのところに、打開の道がすでに、そこに横たわっているのである。」


〇全然わかりません…(>_<)
ただ、「男は黙って…」というのがカッコイイと思えるのは、この辺の価値観が私たちの中にあるからなのかな、と思いました。