読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本はなぜ敗れるのか _敗因21か条

「ミンダナオで、日本軍が、多少とも一種の権威を持っていたのは、昭和十七年五月の作戦終了より九月のモロ族蜂起までの、わずか四か月間だけである。この間はおそらく彼らの、再編成・攻撃準備期間であった。

この蜂起で、まず同島警備隊生田旅団の独立守備第三十四大隊吉岡中隊が、ラナオ州ダンサランで、蜂起したモロ族のためほぼ完全に全滅し、ついでこれに驚愕した旅団司令部が討伐のため、小部隊を残置して各地の警備隊主力を引き上げたところ、その手薄に乗じて、全島一斉蜂起という状態になってしまった。

道路はズタズタ、通信線は切られ、守備隊同士の連絡もとれない。そして、ゲリラは住民と合流し、孤立した守備隊を包囲して、次々にこれをほぼ完全に全滅させていった。」



「これに対して、同じアジア人で共に非キリスト教徒だという日本が、しかも彼らを米国支配から解放するために来たはずの日本軍が、このモロ族にまず叩かれ、最後まで彼らを味方としえなかったこと、そこには、考えうべき数々の問題がある。

そしてその問題は、浮ついた「同文同種」「アジアの解放」「東亜新秩序」「共栄圏」等の一人よがりのスローガンがいかに無意味で、自己を盲目にする以外に何の効用もなかったことを物語っているであろう。」



「北京在住三十年、北京市庁の観光課に勤務しつつ遺跡の保存にあたり、中国人から非常に尊敬されていた石橋丑雄氏が、「日本軍は、元来は親日的であった中国人まで、むりやり反日に追いやったようなものだ」と言われたが、これと全く同じことが、フィリピンにも言えるのではないであろうか。」

「ここで少し、公的な記録の要約と小松氏の記録とを比較してみよう。同じような状態を記録しても、書く人によって非常に印象が違ってくることが一目瞭然となるであろう。(略)


昭和十八年九月、早くもヴィクトリアス製糖会社から、十八キロ隔たるマナプラ工場に向けてアルコール原料を輸送中の列車が襲撃された。同九月、台湾製糖が経営しているマナプラ工場の日本人通訳が、シライの町から三キロほどのところでゲリラに惨殺された。(略)

これが十九年になると、

(一) 三月二十八日、マタ中佐(ゲリラの隊長)指揮下のバクラオン少佐を長とするゲリラ約七百名がバコロド南方のバゴ町を襲撃、民家十三戸を焼き払い、衣類、食料を強奪し、住民の乗車せる自動車まで襲撃して婦女子に至るまで十数名を焼き殺した。

(二) (略)

(三)ギンバロン町を襲撃したゲリラ隊は、同町警備の中村曹長以下二十名を、あるいは射殺し、あるいは逮捕して耳を斬り鼻や陰部を削ぎ落して殺し、ボロ(蕃刀)で寸断する等、正視できぬほどの残虐な殺し方をした、_という状態になっていた。

だが奇妙なことに、方面軍はこの実情を少しも掌握しておらず、この島を前述のように「ネグロス航空要塞」と呼び、ここから出撃して、レイテのアメリカ軍を叩くつもりでいたらしい。」


『ゲリラの親分と交渉成立   タリサイ酒精工場の復旧も終り製造を始めたが原料糖がほとんど焼けてしまったのでバコロドの砂糖工場から砂糖を運ばなければならなくなってきた。自動車ではいくらも運べんので鉄道を使うことにした。幸いバコロドとタイサイ工場とを繋ぐ線があったので、これを利用することとした。

この運搬を行う兵力、鉄道は保線、警備の兵力は馬鹿にならないほど多く必要なので、神屋氏の発案で、この地区のゲリラの親分に交渉して砂糖の運搬を請け負わせるようにしたらというので、さっそく神屋氏が交渉委員で交渉し三月から実施することになった。報酬は運搬砂糖の三割と言う事で。』



「以上が、小松氏がマニラを離れてネグロスに行き、同地の酒精工場の運営を指導し、ついに全工場は爆撃と自爆で損失し、山に入る直前までの記述の抜粋である。(略)

以上二つの記録を一読すれば、だれにでも両者の違いが明らかであろう。」


「一体問題はどこにあるのであろう。戦争中、「鬼畜米英」という言葉があった。事実、線上には”残虐行為”は常に存在する者であり、もちろん米英側にもあり、その個々の例を拡大して相手の全体像にすれば、対象はすべて人間でなくなり、「鬼畜米英」「鬼畜フィリピン」「鬼畜日本軍」になってしまう。

そしてこういう見方をする人たちの共通点は常に「自分は別だ」「自分はそういった鬼畜と同じ人間ではない」という前提、すなわち「相手を自分と同じ人間とは認めない」という立場で発言しており、その立場で相手の非を指摘することで、自己を絶対化し、正当化している。

だが、実をいうとその態度こそ、戦争中の軍部の、フィリピン人に対する態度であったのである。そして、そういう人たちの基本的な態度は今も変わらず、その対象が変わっているにすぎない(略)」


「そして小松氏には、この態度が皆無なのである。氏は、実に危険な、おそらくフィリピンで最も危険な場所におり、しかも全軍がジャングルに引き上げるという直前、別の記録でみれば、到底どうにもならない”残虐状態”の渦中にあるはずなのに、その恐怖すべき相手であるはずのゲリラと悠々と交渉して相互の諒解に達している。」


「そしてそれらの事件の背後には、現地における対日協力者への、あらゆる面における日本側の無責任が表れており、この問題の方が、私は、戦後の反日感情の基になっているのではないか、とすら思われるからである。」


「だがすべての人間に、それがなし得なかったのではない。小松氏だけでなく、同じようなことが出来た人もおり、そういう人々には、フィリピン人から収容所への絶えざる「差し入れ」があった。そのことを小松氏も記している。

従って問題は常に、個人としてはそれが出来るという伝統がなぜ、全体の指導原理とはなり得ないのかという問題であろう。」