読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (戦場の内側と外側)

「「戦争とは輸送である」という言葉は事実である。戦場というものが常に「戦闘」であるかの如く思われるのは、その瞬間しか報道されないからであろう。
たとえば火野葦平氏は、「麦と兵隊」の中で「戦争とは歩くことだ」と記されている。


また「百人斬り競争」の浅海特派員の創作動機が、「行軍ばかりで」「面白い記事」がなく「特派員の面目がない」ということ(向井少尉の遺書によれば)だが、「歩く」「行軍」はいわば二本足による輸送だから、「戦争とは輸送」なら、これが当然の状態である。(略)


外部の目はその結果の一瞬しか見ない。しかし内部の人間には、実に時間と労力のほとんどが、その一瞬に至る道程で消費・消耗されるのである。そしてこの長い長い時間の間は、砲車を指揮して指示通りに進んで行く者の方があらゆる点で楽である。


従って私の言ったことも、一言でいえば「もう楽がしたい」ということでもあった。
だがさらに大きな抵抗感と虚脱感は、部下の死も今までの労苦も全部無駄だったということである。砲車も砲弾も、バレテパスを超えてここまで運んで来た。私は何度もこの道を往復したので、マニラを起点とする道路標が頭に入っていた。


バレテパスが確か百六十キロ、アパリが四百六十キロだから、差引約三百キロある。指揮班長は知らないが、その道路の実情を私はよく知っている。


川沿いのその道は、カガヤンの本流に流れ込む無数の小支流を横切っているが、その橋はすでにすべて落されている。工兵の手で迂回路と水中橋が作られているが、この迂回路の急斜面とツルツルの赤土は、雨がふれば人ですら杖なしでは昇れないほどである。


しかしそういう場所は、対岸のゲリラが重機をそこへ照準して待ち構えている。すべる急坂はスリップしてトラックも一気に昇れない。とまる、その瞬間にとんでくる機銃弾、思わずアクセルを踏めば、ボロトラックのシャフトが折れる。


そういう道を、人力で砲車を曳行して三百キロ歩けばどうなるのか。一体全体、砲弾をどうしろというのだ、ガソリンはもう一滴もないに等しい。第一その道路際まで、砲車をどうやって引き出すつもりなのだ。またどんな方法で砲弾を担ぎ出すつもりなのか。人海作戦!それを強行すれば全員が戦わずして倒れるだけだ。


今までやったことはすべて無駄。これからやることもおそらくすべて無駄である。結局は膨大な人員と物資を南から北へ運び、ついで北から南へ運び、全員が体力が尽き果てて野垂れ死に同様に死ぬというだけのこと、たしかに一瞬に等しい戦闘は数回あったけれども、結局は、やはりそうなっただけであった_戦争とは単なる輸送ではない、全く「無駄で無意味な輸送」である。



だがこういう状態まで行きついても、不思議なことに、人にはそのまま自分たちが滅亡するという実感はないものである。否むしろ逆であって、追いつめられれば追いつめられるほど、誇大妄想狂的な計画が出てくる。赤軍派が自分たちに「世界同時革命」が出来るかのように言い出すのと似た心情かも知れない。



バレテパスを米軍に突破されたら、アリタオ近郊のバットベリを爆破し、同時にダムを築いて米軍を水攻めにし、バレテパスの残兵が後退展開してその背後を包囲して全滅させる、といった白昼夢に等しい計画までまじめに立案されたそうである。


小規模だが全く同様のことが、師団の内部にも起る。言動だけはますます勇ましくなる。おそらく現実を見るのが怖いからであろう。この勇ましさは勇気でなく、むしろ臆病である。そしてその臆病さに基づく威勢のいい様々な指示がくる。(略)



こうなると、結局は「やっております」という全く無駄なゼスチャーのためにだけ、人が動かざるを得なくなる。従って、私の最後のツゲガラオ生活は、たとえS中尉が表むきにはさまざまの任務を課したとはいえ、内心で本当に期待していたのは途中のアムルングに派遣してあった「物資収買班」を撤収することだけで、他は、万が一可能ならばということであったろう。


一方私には、塩を世話してくれたEというフィリピン人に会えば、、何か助力をしてくれるかも知れないという気はあった。彼らには、国家・民族・戦争などという概念はない。彼らにあるのは、ある人が自分の「友だち」であるか否か、ということと「兄弟・従兄弟」であるかないか、ということだけである。(略)


規準はそれだけだから、少尉も二等兵も差はなかった。彼と一番気が合ったのはO伍長である。従って意志が通じなければ「ヘイ・ルテナン」と平気で私を呼びつけて伍長の通訳をさせた。その態度は実に気持ち良かった。(略)



従って後にO伍長の死を聞いた時、彼は激怒し、心の底からアメリカ人を呪った。」



「出発間近になって、私は重傷を負ったあのF軍曹がツゲガラオの病院にいることを知った。それを聞いただけでまた心の中でムラムラと何かが湧き起り、何としても彼に会い、徹底的に追及して、だれがカタヤワンにトラックをまわしたか聞き出してやろう、それだけでもツゲガラオ行は意味があると考えるようになった。



ツゲガラオはひどい混乱だという噂だった。兵士が貨物廠を襲ったというようなデマもとんだ。そして「他部隊ノ物資ヲと盗奪シタル者ハ。発見次第、身分階級ヲ問ハズ即座に射殺ス」という憲兵隊の掲示が出ているという話だった。(略)


全ての秩序は恐るべき速度で崩壊していた。Sという上等兵がフィリピンの女性と共に左岸に脱走し、ゲリラに投じて、それがアルカラ付近で日本のトラックを襲撃するう噂もあった。


日本軍が養成したコンスタビュラリ―(現地軍)が一挙にゲリラ側に寝返り、同時にまで日本に協力的に見えていた人々が、一転して対日攻撃の急先鋒になったから、今までの協力者を信頼したらかえって危ないという話もあった。


しかし八名の警乗兵とともに出発した時、私はそういうことはどうでもよかった。そして内心で一番大きな比重を占めているのは、やはりF軍曹との会見であった。」