読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

母性社会日本の病理

「昼の意識が真実を認識し、夜の意識が虚構を見るというのは、あまりに浅薄のような気がする。先にも述べたように、夜の意識による体験は、実際的な効果を生みだしていることを忘れてはならない。」



「私はそれをイメージと呼びたい。われわれは、そこに美女のイメージを見、愛のイメージを体験する。これは何度も繰り返していうが、イメージが現実に劣るとか、イメージは真実でないとかを意味していない。


それは動かしがたい強さをもった、夜の意識の真実なのである。このイメージの世界が、どのような力強さに満ちたものであるかを次に示そう。」


「実際、あれほど実用性を主張した主婦たちが、製品を前にすると驚くほど態度を一変させたのである。

そして、このような、宝物としてのイメージによって、彼女たちは製品を選択し、買うわけである(もちろん、これはずいぶん前の話であって、今は冷蔵庫のイメージも変わっていることは当然である)。」


「初めに述べたように、美女のイメージに動かされる人もあるが、バーなどに行こうともしない男性も実際に存在する。これらの人から見ると、バーに通う人達は、昼の意識で見るこれらの女性の実の姿を知らぬ、あるいは忘れてしまったあわれな男性と見えることであろう。


そして、また反対にバーのおもしろさを知った男性から、これらの堅い人を見ると、イメージの世界の美しさや生命力に対して、戸を閉ざしてしまった世界の狭いあわれな人と思えるかもしれない。」


〇この話は、私にはよくわかりません。


イザナギは、その妻イザナミの死を悲しみ、一目会いたいと思った黄泉の国に下りてゆく。黄泉の国、地下の国、死者の国は、イメージの宝庫として、あらゆる国の神話やおとぎ話に出てくるものであるが、イザナギがkの地下の国において、禁を犯してまで見たものは何であったろうか。

それは、妻イザナミの醜悪で、恐ろしい姿であった。


あまりの恐ろしさに逃げ出してゆく夫イザナギを追いかけてきたイザナミは、とうとう追いつけぬと悟ったとき、怒りにまかせ、地上の人間を一日千人殺すであろうと叫ぶのである。」


〇ここを読みながら思い浮かんだのは、少し前にあった言葉、「判断が不安定なときはそのこと自身が不安の源泉となり、コンプレックスを生みだす」です。

つまり、「不安定な判断はそのこと自身が不安の源泉となる」のではないかと。
女性をしっかり見ようとしない時、不安定な女性観しか持てず、そのこと自身が女性恐怖の源泉となる。

これは、男性恐怖でも、人間恐怖でも同じだと思うのですが。

「地上にあっては、夫を助け、国を産み、山を産み、川を産み、すべてを育てようとした母なる神は、ここで、醜く恐ろしい死の神の姿として現れる。

イザナギが黄泉の国で見たものは、すべての母、すべての女性の中に存在するくらい真実なのだ。」


〇地上ではこの上なく素晴らしい女神のような女性でありながら、その同じ女性が、
黄泉の国では恐ろしい死の神の姿になる、というこの極端な変貌は、少し対人恐怖症の症状に似てるような気がします。

ある時は、自分がこの上なく素晴らしい人間に思える。でも、ちょっとしたことで、自分ほど最低の人間はこの世にいないと思える。


多分、私がもう年寄りになったからそう思うのかもしれませんが、
そんな、「この上なく素晴らしい女神のような女性」なんて人間はこの世にいない。

そんなイメージを持つから、その反対のイメージも現れるのではないかと。


「子供の問題で悩み相談に来る母親に、私は会うことが多いのであるが、子どものためとあれば、自分はどうあってもいいと献身的な愛を語り、またそのような意志も持っていながら、少し解決が難しくなると、困難に立ち向かってゆくよりは、「あの子を殺して、私も…」と決意を述べたり、時には実行しかねないほどの母親がずいぶん多いことには驚いてしまうのである。」


〇それほどまでに、子育ての責任は、母親一人に押し付けられているという現実。


ここでも、あの山本七平氏の言葉(日本はなぜ敗れるのか)を引用します。

「氏は、ある状態に陥った人間は、その考え方も生き方も行動の仕方も全く違ってしまう事、そしてそれは人間が生物である限り当然なことであり、従って「人道的」といえることがあるなら、それは、人間をそういう状態に陥れないことであっても、そういう状態に陥った人間を非難罵倒することではない、ということを自明とされていたからである。」




関連してこちらも山本氏の指摘です。

「それは、さまざまな面で基礎なき空中楼閣を作り出し、その空中楼閣を事実と信ずることは、基礎科学への無関心を招来するという悪循環になった。」

〇場の倫理で個人の気持ちを表現することを悪としていては、人間の本質をきちんと把握することが出来ないのではないかと思います。

そして、「一体感」とか「無我の世界」とかいうイメージを先行させる、それはまさに、空中楼閣だと思います。