読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

「2 自由の根拠_身体と財産

自分の身体はどこまで自由か

リバタリアニズムは、人間の自由を、国家よりも大事にするという考え方です。そして、その自由を守るために、最低限の法律がなくてはならない。という順番で考えて行く。
自由の根拠を考えてみると、まず人間の身体です。(略)



リバタリアニズムにもいろいろな立場がありますが、とにかくこの考え方を徹底していくと、やや常識と違う結論が出てきます。


まず、アメリカで必ず論争になる妊娠中絶の問題。中絶の是非は、胎児が自分なのか他人なのかで、答えが違ってきます。もし胎児が他人、すなわち、もうひとりの人間であれば、中絶は許されなくなります。人間の身体はどれも不可侵の権利を有するわけですから、胎児といえども、人間である限り、中絶はできません。



いっぽう、胎児が自分の身体の一部であるならば、それを処分すること、すなわち中越は自由です。ではどちらなのか。論争が起こっていて、決着していません。



また、身体がまったく自分の自由になるなら、臓器売買の自由も主張できます。臓器売買は、ふつう倫理的でないと言われています。でも、たとえば私が失業し、食い詰めて、明日にでも自殺しようと思っているとします。で、考えてみると、私には腎臓が二つある。



自分の身体は自由に処分できるわけだから、腎臓を二つ持ったまま明日自殺するのと、腎臓をひとつ一千万で売って、とりあえず何年か生き延びるのと、どっちがいいだろうか。(略)



私が一千万円で売ってもいいと思ったら、そのほうがいいわけで、それを他人がとやかく言えるだろうか。そうすると、臓器売買は自由でなくてはならない。臓器売買を禁止するのは、個人の自由を抑圧することになります。



というわけで、臓器売買の自由は、リバタリアニズムでは一部で早くから主張されてきました。
それから売春の自由。自分の身体をどのように使って生きようと、自分の勝手である。それを他人がとやかく言う筋合いはありません。



ドラッグを使う自由。ドラッグを使ったからといって、他の人間に害が及ぶわけではない。有害な副作用や後遺症があったとしても、それは私に及ぶだけである。将来、何か副作用が起こるかもしれない。でも、いまとても楽しい。その場合に、どちらを選ぶかは、私の自由である。



これは極端な例かもしれませんが、リバタリアニズムは、個人の自由を絶対視するわけなので、薬物は、全部合法化すげきだという議論もあります。」



〇 ハンナ・アーレント

[しかし次のことを打ち消すことはまったくできない。すなわち近代科学の偉大な発見者_アインシュタインプランク、ボーア、ハイゼンベルクシュレディンガー_の考察が、「近代科学の基礎にかかわる危機」をもたらし、「そして彼らの中心的問(人間が世界を認識することができるためには世界はどのようでなければならないか?)は科学そのものと同様に古く、今も未回答のままである」ということを。」


と、言いました。

そして、ハラリ氏も


「私たちは技術の時代に生きている。私たちのあらゆる問題の答えは科学とテクノロジーが握っていると確信している人も多い。科学者と技術者に任せておきさえすれば、彼らがこの地上に天国を生み出してくれるというのだ。

だが、科学は他の人間の活動を超えた優れた倫理的あるいは精神的次元で行われる営みではない。

私たちの文化の他のあらゆる部分と同様、科学も経済的、政治的、宗教的関心によって形作られている。」

と言っています。(サピエンス全史からの引用)

サピエンス全史の「あとがき」には、こんな言葉もありました。

「人類はいままでになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。


自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?」

〇 個人の自由を絶対視する人間が作り上げる社会はどんな社会になるのか…
恐ろしさを感じます。