読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

天皇退位の決定権は誰にあるか

 

この「反面教師」と天皇とを比べていくと、さまざまな点で、その行き方が全く逆なことに気づく。だがそれについては、後述するとして、敗戦のときウィルヘルム二世はすべてを投げ出すようにして退位し、オランダに亡命したことと、その意思が全くなく、逆に、自らマッカーサーのもとへ出頭した天皇とでは「責任の取り方」が全く違ったといえる。

 

 

 

天皇は明らかに退位を考えており、それに関するご発言は四回あるが、そのいずれを見ても、いわば「逃げる気」は全くない。すでに述べたように終戦の八月二十九日の「木戸日記」に見えるお言葉は、「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして……」である。

 

 

 

さらにマッカーサー会談の”You may hang me."は、もちろん退位を前提としたお言葉であろう。次が二十一年一月四日、藤田侍従長の回想に次のようにある。天皇公職追放令に驚いて言われた。

 

 

「随分と厳しい残酷なものだね。これを、このとおり実行したら、いままで国のために忠実に働いてきた官吏その他も、生活できなくなるのではないか。

藤田に聞くが、これは私にも退位せよというナゾではないだろうか」(略)

 

 

もう一度、すなわち四回目が、昭和二十三年十二月二十四日の「朝日新聞」の記事である。このころ、すでに十一月の十二日に極東軍事裁判A級戦犯二五人に有罪の判決を下し、十二月二十三日、東条英機ら七人の私刑が執行された。これと関連して天皇の戦争責任問題が、いわゆる進歩的文化人の意見発表や世論調査の結果などで連日報道され、退位問題がピークに達したときである。朝日新聞は次のように報じている。

 

 

「ある著名な人から天皇制護持のためにも退位を可とするという内容の著書が差し出された時、陛下は「個人としてはそうも考えるが公人としての立場がそれを許さない」という意味のことを洩らされた。(中略)

 

 

さらに「国民を今日の災難に追い込んだことは申し訳なく思っている。退くことも責任を果たす一つの方法と思うが、むしろ留位して国民と慰め合い、励まし合って日本再建のため尽すことが先祖に対し、国民に対し、またポツダム宣言の主旨に副う所以だと思う」と述べられたそうである」

 

 

 

この「公人としての立場」「ポツダム宣言の主旨に副う」とは具体的に何を意味しているのであろうか。マッカーサーポツダム宣言に基づき天皇を含む日本政府を接収しており、「公人として」の天皇は、勝手に退位するわけにいかない。御巡幸をはじめとする天皇の行動はすべて、マッカーサーの許可の下に行われている。さらにマッカーサー天皇が「私自身をあなたの代表する諸国に委ねる」と言ったと受け取っているし、天皇は確かに、そう受け取り得る言葉を口にしている。(略)

 

 

 

「捕虜の長」を充分自覚されていた天皇

 

時々日本には妙な発言をする人が出てくる。その人は日本が占領下にあることを忘れて、在位も退位も天皇が自由に出来ると思い込んでいたらしい。のんきな話である。

 

 

というのは、マッカーサーは日本全部を捕虜にしたと考えており、捕虜なるがゆえに「米陸軍の予算を使ってかつての敵を養うこと」は当然だと、米下院歳出委員会の疑問に対して次のように答えているからである。

 

 

 

「……われわれは勝利にともなう責任で、日本人を、捕虜として引き受けた。それはかつてバターン半島が陥落した時、われわれの飢えた将兵が、日本軍の捕虜となった時と少しも変わらない。こんどは立場が逆になったが、戦争はもう済んでいる。もし、われわれが今、このせまい島国に閉じ込められて、われわれに監視されている日本国民に、生命をつなぐだけの食糧も与えることを怠るなら、われわれがとった懲罰行為(「バターンの死の行軍」への戦犯処罰」は、果たして正当化できるであろうか」

 

 

 

マッカーサーにとっては、天皇は、「捕虜の長」にすぎない。したがってすべて彼の思うままであり、戦犯逮捕の際、天皇を退位させたほうが占領政策に有利だと考えれば、それは即座に出来たであろう。彼は天皇の言質を取っている。おそらくマッカーサーは、天皇という「捕虜の長」とその言質との両方を「人質」にして、占領政策を進めるのが有利と考えていたであろう。

 

 

 

そして天皇御自身のお言葉から考えれば、天皇もまた自らが「人質」であることを自覚されていたと思われる。(略)」

 

 

〇 以前にも書きましたが、私の母の世代の人々から聞いて、とても印象的だった言葉があります。「戦争に敗けて本当に良かった。敗けてアメリカに支配されたから、私たちは幸せになった。」という言葉です。

 

敵に敗けたのに、その敵を憎まず、むしろ敵に占領されている状況を喜ぶのはなぜか。

このことについて、山本氏は、どこかに書いていたと思います。

日本は、一般庶民を軍部が支配するという形になっていた。一般庶民からすると、支配者が軍部からアメリカに代わっただけであり、その軍部による支配があまりにも酷かったので、アメリカに対する抵抗運動などは、起こらなかったのではないか、と。(どこにあったのか、見つけることが出来ず、記憶で書いているので、違っているかも知れません。)

 

今の安倍政権が、昔のように庶民を支配しようと、スジも道理も倫理も無視するやり方を見ていると、あのような人々に支配されるのは嫌だ!と大声で叫びたくなります。私たちはもう老人ですが、子や孫が可哀そうでたまらない…。

 

 

※「バターン死の行進」については、山本七平著「一下級将校の見た帝国陸軍」に載っていましたので、引用します。

 

「日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのは当たり前であった。そしてこれは単に行軍だけではなく他の面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。」

 

〇残虐行為として処罰された「バターン死の行進」よりも、もっと酷い行軍を日本兵は日常的にさせられていたと書かれています。