読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第一部  戦争責任)

「戦争を裁くルール

 

(略)

加藤 (略)

罪の概念についてはヤスパースが次のように分類しています。まず刑法的な罪というものがある。これは法を破った罪で、裁判所が裁く。次が政治的な罪で、これは政治的共同体のリーダーに課せられる。ただし、近代国家の場合は、国民がリーダーを選んでいるわけだから、そのかぎりで国民も政治的責任を負う。(略)

 

 

三番目が道徳的な罪で、これは個人の良心が裁く。たとえば、親しくしていた人間から、「なんだ、君はそんな人間だったのか。僕はもういやだ。つきあいたくない」と言われ、離反される。道徳的な罪は、そういうように友人との交流、そして個人の良心が裁き手になる。

 

 

その他にもうひとつ、形而上の罪と呼ばれるものがある。これは人間相互間の連帯から生じる罪です。たとえば、見知らぬ人がガス室へ連れて行かれるところに、たまたま居合わせたとする。それに抵抗すれば自分の命も危ないかもしれない。そういうような場合でも、それを黙って見送ったら、彼は自分に罪があると感じるだろう。でも、その見知らぬ人をガス室に連れて行くのは自分ではないのだから、それは刑法的な罪でも政治的な罪でも道徳的な罪でもない。それ以外に罪があることをその事例は語っているというのです。

 

 

 

その罪は友人によって裁かれるのではない。

彼は、自分が自分をかえりみて、罪を感じる。その場合、その罪の審判者は神だ、とヤスパースは言っているけれど、それはアウシュヴィッツや広島の生存者について言われる生き残った者のうしろめたさに通じる罪の概念です。(略)

 

 

すると、こうなる。国内的には、天皇は法的には罪がありません。天皇は不可侵だという大日本帝国憲法を臣民は認めていますから。あと政治的な責任、これはあるけれども、それを言うなら同じように、こういう政治体制を選んで支持して来た国民も大なり小なり同罪だと言わざるをえない。

 

 

ですからこの次元で国民が天皇を糾弾するなら、外からの目に、それは五十歩百歩と映るでしょう。だから、これも前に言った国民の責任と天皇の責任の分担、分別の問題になる。これもそのような問題として考えることにします。すると最後になにが残るか。

 

 

人間宣言」によってこの天皇が「人間」になったことによって戦後、新しく生まれることになった責任が残る。たしかにここまでの天皇なら、天皇個人としても責任を問えることは少ない。でも、「この人は、こういうことをやって、いったいどう思っているんだろう」、「天皇をやめるならまだしも、こんなことをやって、そのあともずっと天皇を続けている。

 

 

この人はどう思っているんだろうな」、そういう問いを、戦後の国民は、人間宣言をしていまや人間になった天皇に感じることになる。つまり、国内的な道徳的な責任が残る。というか新しく生み出される。(略)」

 

 

〇ここを読み、

人間宣言」によってこの天皇が「人間」になったことによって戦後、新しく生まれることになった責任が残る。」

という文章にひっかかりました。

 

山本七平著「昭和天皇の研究」から引用します。

「天皇の戦争責任を論ずる人の言説に耳を傾けていると、時々、妙な気持ちになる。その人は「機関説否定・天皇絶対」を今でも裏返しに信じているような気がしてくるからである。」

 

つまり、加藤氏は、戦前、天皇は「現人神」だったという前提に立って天皇の責任を論じています。

でも、「昭和天皇の研究」の中で何度も書かれているように、天皇自身は、「天皇機関説」論者だった。「現人神」に祭り上げたのは、周りの人間と、それに乗せられた国民だった。

 

「竹田 橋爪さんの「日本国家には責任があるが、天皇にはない」という考えをもう少し端的に話してくれますか。

 

橋爪 いま加藤さんが提示されたかたちにそって完結に言ってみますと、戦前の憲法のもとで、何回も言っているように、天皇に法的責任はない。

政治的な責任については、天皇は本来政治的な存在でなく、政治的に行動すべき立場になかったのだから、政治的責任は生じようがない。

 

 

たまたま政治的に行動せざるをえない局面のなかでは、昭和天皇はベストの選択をしている。そういうふうにまず考える。かりに彼に政治的な責任があるとすれば、それは国家機関を構成する他の人々(本来政治的に行動すべき人々)にくらべてもっとも少ない。それは私に言わせれば、責任がない、というのと同じだと思う。

 

 

それから、道義的な責任ということに関しては、個人が個人に問うことだから、私にはなんとも言えない。天皇の道義的責任をどうしても追及するんだという個人がいた場合、私がそれをやめろと口をはさむつもりはない。けれど私は、天皇に道義的な責任があるという世論形成を、団体としての日本国民がやることには反対です。これは当事者とsちえの責任でやっていることにはなりませんから。

 

 

形而上学的責任については、私にはよく判らないが、昭和天皇は生涯を通じて、そうした実存的な問いと向き合っていた人物だという気がする。彼の寡黙は、私にはそう映る。

 

 

加藤 僕が言うのも道義的責任への世論形成ということではありません。国民の天皇に対するこの道義的な疑問を自分からは解かずに昭和天皇は死去した。残された戦後の国民には、この問題にどのような決着をつけるか、という課題が残された。(略)

 

 

橋爪 さっき軍隊の話をしましたが、それは古代や中世の歴史的な軍隊の話で、これはたいへんに具合が悪いものである。そこで、たぶんフランス革命がきっかけになっていると思いますが、市民社会というものができ、市民が税金を払うと同時に兵役の義務を負い、国民軍というものをつくって、国民国家を守るために軍隊を運用するというスタイルができてきます。

 

 

それまで軍隊は、絶対君主であり主権者である国王のもので、国王の傭兵であった時期が長かったわけですが、国民の利益を守るための軍隊になった。軍隊が市民を守る義務は、この時点で生じてきたと思う。(略)

 

 

橋爪 (略)

これは戦争のやりかたに関するルールであって、これに違反した場合、戦争犯罪というふうに考えられて処罰される。具体的には、軍は独自の法律と検察、裁判所をもち、軍法にそむく犯罪行為は、師団ごとの軍事法廷で処理される、という法体系をとったわけです。ですから憲兵もいる。これはもっぱら軍人を取り締まる警察官のようなものですね。(略)これが二十世紀の初頭の段階だと思う。

 

 

 

日清戦争日露戦争のときには、条約改正が済んでいなかったし、戦時国際法を守りつつ戦争をする能力があるということを証明する必要が大日本帝国にはあった。それで日本は、この戦時法規の遵守に関して非常に神経質になり、捕虜の虐待もなく、理想的に近い形で運営されたという実績がある。

 

 

これをみると、大日本帝国というのは、もともと戦時法規や国際法を守る能力のなかった国ではなくて、それが国益にかなうと思ったときにはそれを守ったわけです。

ところがその後、国際法規に関する教育がおざなりになり、日華事変以後はめちゃめちゃになった。一九四一年一月に定められた「戦陣訓」のなかの「生きて虜囚の辱めを受けず(=捕虜にならない)」という規定が強調されたりした結果、玉砕や捕虜虐待が続発した。こういう事実関係があったのです。

 

 

 

竹田 そうすると、日本国の戦争責任というのは、一言でいえばなんですか。

 

橋爪 一九四五年まで、にほんが理解していた戦争責任とは、戦時国際法を守るという責任だった。東京裁判のカテゴリーで言えば、戦時国際法に違反する戦争行為を命令すればB級、その命令を受けて実行すればC級、こういうことだと思う。(略)

 

 

竹田 確認したいのだけれど、日本が第二次大戦において、そういう国際法規を守らなかった、その点で戦争責任があるということ?

 

 

橋爪 明確な国際法上の責任としては、そこまでだと思う。日本が戦争を起こした事自体は、当時の国際法にてらして合法であったか非合法であったかは灰色だけど、日本は合法であると思って戦争をしている。その戦争をすべきでなかった、というふうに考えるならば、それは法的責任というよりも、政治責任ではないだろうか。

 

 

 

竹田 橋爪さんの結論としては?

 

橋爪 すべきでなかった戦争。

 

 

竹田 では、法的責任はないが政治責任はある、ということですね。(略)やっぱり戦争を起こした当事者が責任をとるべきでしょう?

 

 

橋爪 それはそうですけれど、端的に答えれば、それは日本が国家を運営する能力がなかったということなんです。戦争は、自国にも相手国にもコストの大きい、大変な出来事です。戦争を起こすからには明確な戦争目的と、どのように戦争を終結させるかという目算がなければならない。

 

 

 

そのどちらもはっきりしないまま、日本は戦争を引き起こした。ですから、日本が国家を統治する能力を強化する、これが責任に応える道であるわけです。

 

 

竹田 その責任は誰に対する責任ですか?

 

 

橋爪 国際社会に対する責任でしょう。

 

 

加藤 たとえば満州事変での中国などに対する責任は考える必要はないということですか?

 

 

橋爪 いや、それを含むでしょう。(略)

そこで、日本が植民地本国とのあいだで戦争を始めれば、植民地に侵攻し占領することは、合法的な戦争行為の一部となる。占領したら日本は、植民地本国の施政権を代行する。日本が避難されているのは、その際、日本軍が施政権をきちんと運用せず、現地住民を保護せず、虐待したからでしょう。

 

 

これに対して、満州事変、日華事変は、独立国である中国(中華民国)の一部を切り離して日本の勢力圏下におくことを目的とした陸軍の陰謀にもとづくもの(日本が中国に仕掛けた戦争)で、対米英開戦以降の南方作戦とは段違いに、侵略の名にふさわしいものだと言えると思います。(略)」

 

 

〇 「日本が国家を運営する能力がなかった」という文章に衝撃を受けながらも、やっぱりそうか…と納得もしました。あの原発事故の時にも、国家として対処する能力があぶなかしいと、まざまざと見せつけられました。

情報を隠蔽する。真っ当に対処しようとしている政権の足を引っ張る政治家がいる。

 

そして、今もこのコロナ禍で、国は先ず大企業を守ろうとしていますが、国はもともと多くの国民(人間)によって成り立っていることを忘れているようです。

今も「国家を運営する能力がない」ように見えます。

 

 

「加藤 (略)

つまり、ここにあるのは、日本のかつての行為を日本国民である自分がどう考えるかという問題です。そしてこれは、学術論文や法解釈の問題ではなくて、日本国民と近隣諸国の国民の関係を基礎として考えるべき問題なんです。それは、いま僕が彼らと対等で協調的な関係をつくりたいと意欲するから問題になってくる。

 

 

僕が日本という国の人間と、被侵略国の人間とのつきあいということを日本という国にとって非常に大事だと思う判断に立ち、以前相手に悪いことをしておいて、そのあとの謝罪、責任の明確化というあたりでやるべきことをやっていないということを、自分の審美眼からいって、嫌だと感じる。また、規範の意識としてもこれはよくないと思う。

 

 

そしてこれをどうにかしたいと考える。そんなふうに、現在の生きる経験のなかから、戦争にまつわる責任の問題は、その意味を汲みだしてくる。少なくとも、一般の、なんでもない人間が、この問題に関心をもつ順序は、こういうことだ。

 

 

 

隣人にはなんの関心もない、世界がどうなったっていい、と思っていたら、戦争責任なんて考える理由は出てこない。そのことをじっくり考えるべきだと思う。僕は戦争時の日本のアジアにおける行為は、侵略行為だと思っている。けれど、幸か不幸かそのときのレヴェルにてらしあわせて法的な網をかけてみると、これは犯罪行為を構成しない。

 

 

だから、問題は、そのことを理由に、「これには責任がない」と言うか、逆に、これが責任を構成するような論理を東京裁判の論理とは別に新しくつくり、「これは侵略行為であり、悪なんだ」と言うか、ということなんです。そのどっちかということが問われている。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天皇の戦争責任(第一部  戦争責任)

「責任とは何か

(略)

橋爪 まず、個々人がお互いに責任を追及し合うのはなぜかというと、行為に先立って「自分はこう行動すべきである。相手はこう行動すべきである」という予測があるからです。そして、それが裏切られたときに、現状を追認しないで、「ああなるはずだったのに、なぜあなたはこう行動するのですか」と相手を問い詰めることになる。

 

 

 

これが責任の原型でしょう。つまり、そこには、実際に生じたのとは違った「あるべき状態」、「規範」というものがなければいけないし、それが共有されていないと、責任という問題は生じてこないわけです。ここに実にむずかしい問題がある。どういう範囲の人たちが、どういう状況下で規範をわけもつのか、この共同性がないところでは責任は追及できないわけです。

 

 

 

みんな勝手に利己的に自分の都合で行動していればそれでいいという状態を認めてしまえば、責任なんて問うても意味がなくなるわけですね。

そこで、そういう規範をわけもつ状態、ルールが生まれるためには、どういう条件が必要かというふうに考えてみると、いまルソーがひきあいに出ましたけど、たしかに合意からルールは生まれる。合意というのは、あらかじめ「こういう場合にはこうしようね」といろいろな場合について思考実験をし、ある範囲の人びとが意思を確認し合う。つまり約束する。そうやって「あるべき状態」を共有することにして、共同社会をつくりあげる。

 

 

 

これはひとつの合理的な考え方だと思う。しかし、ルソーの示したのはひとつの可能性にすぎない。社会のなかのルールは、そういう合意によって生まれるケースもあるだろうけれど、むしろ多くの社会のあり方は、そうではない。なぜそういうルールがあるのか、なぜある範囲の人たちがそのルールに属していて、別の人たちが属していないのかということが、全然、説明のないままずっとそこにあり続けるという状態のほうがむしろ普通ではないでしょうか。(略)

 

 

 

これも私にはなんの相談もないけれど、私の生きている社会を成り立たせるルールの来歴をたどるときにどうしてもたどらなければならない過去だから、不合理であっても自分の一部分として引き受ける。それは他のどんな社会に生まれた人々もみなそうだと思います。すべてが合意で形成されるというのは、それはルールを正当化するためのフィクションとしてはありうるけれども、社会の実態とは違うわけです。(略)

 

 

 

橋爪 次に起こってくるのは、ある範囲の人びとが(おそらくは慣習によって)ある具体的なルールに従っていたのだけれど、これが内側や外側から脅かされるということです。つまり、ルールがなくなってしまう危険ですね。内側からというのは、rule違反が累積するということで、殺人のような不法行為が増えてしまうことです。(略)

 

 

 

個々人は台頭なので、責任を追及すると言っても、相手に無理強いする方法がない。そこで、暴力をもちいても犯罪の責任を追及するという、刑法が必要になります。ルール違反を本人の意思にかかわらず処罰する、という責任追及の仕方が起こってくる。

この刑法は、処刑という、一方的に暴力を独占するかたちを必要とし、つまるところ権力になっていき、最終的には国家というものになっていくわけです。(略)

 

 

 

現実問題として、こういう原型的な国家がどこの社会でも、程度の差こそあれつくられていったと思います。これを認めないと、そのルールに従い、あるべき社会を実現するというスタンスでもって人間は生きていくことが出来なかったんだと思う。(略)

 

 

 

橋爪 ええ。

そうするとその次には、実際に権力を担う個人がいなければならないという問題が起こります。それも、はじめは仲間として生きていたはずの彼が、一方的に正邪を判断し、判決をくだし、あるいは戦争を始める、そういう権限をもった特別の個人になるわけです。そういう個人の出現はやむをえない。でも、その権力をもった彼が、実は、ルールに従うとはかぎりません。

 

 

そこで一般のひとびとにとっての最大の問題は、権力をもっている彼が、自分たちがルールであると思っていたものに従わなかった場合はどうしたらいいのか、ということになる。言い方を変えれば、権力をもっている彼が自分に命令をくだして、それが自分がルールだと思っているものと違った場合、従ったほうがいいのか従わないほうがいいのかという問題が起こる。これがたぶん、国家というシステムにつきまとういちばん苦しい問題で、ここから道徳と法律が分離するわけですね。(略)

 

 

橋爪 なぜこの話をしているかというと、それは大日本帝国の成り立ちというものを理解したいし、昭和天皇というものを理解したいからなんです。そしてこの話題は、日本が明治以後、また戦後に、どのような近代を営んできたのかという問題に直結する。

 

 

 

結論の先取りになるかも知れないけれど、私の観点をあらかじめ述べると、昭和天皇近代主義者であり、合理主義者であり、徹底して近代人であろうとした人物です。だから、大日本帝国立憲君主制の枠内で理解しようとし、その原理原則にのっとって行動した。近代のルールにのっとって行動することが、国家に対する自分のつとめだと考えた。

 

 

しかし、他の人々はかならずしもそういうふうに理解していなかった。昭和天皇がそこまで近代的だとは、想像できなかったんですね。じゃあどういう文脈で他の人々が理解していたかというと、大日本帝国憲法の背後に必ずしも文字に書かれていない部分、日本というルールを共有する共同体が伝統的に存在していたという非合理性を背後にしていたわけなんだけれども、それでもって昭和天皇をながめようとした。

 

 

 

それは大日本帝国憲法のいくつかの条文に表われているし、その背後にある思想にも表れています。明治維新や、その前にさかのぼるいろいろ歴史的な経緯の累積として、大日本帝国憲法があるのです。

一方で、大日本帝国憲法の範型となった西欧型の立憲君主国の主権や権力や責任のあり方についておさえるのと同様、もう一方でそれを受け取ったの本社会の特殊な文脈を理解しておかないと、そのはざまに立たされた昭和天皇がおかれた状況はわからないと思うわけです。(略)

 

 

 

加藤 僕はね、それは賛成だけれども、そのことの確認という要素を、この問題の考察の一番基本的な条件の中には入れない。いまの戦後の憲法は、戦前の大日本帝国憲法にくらべれば、国民主権の近代原理の基本はおさえている。僕はなにもこの戦後の近代的な観点で、戦前の事例をそのまま裁断するのがいいなんて言いません。その当時の了解の推移を確定することは大事だと思う。でも、それが当時の状況におかれた人間の行為として妥当だったかどうか、ということを判断する最終的な基準は、その戦後の近代的な観点にある。

 

 

 

橋爪 私の言い方だと、「戦後の近代的な観点」によって大日本帝国の妥当性や問題性を判断する、というふうにはならなくて、そもそも近代という観点によって大日本帝国ならびに戦後日本の妥当性や問題性を検証する、となるなあ。もちろん私も、戦後的な価値観を擁護したいし、もっと強固に推し進めたいと思っているわけです。

 

 

 

しかし、現状は大変不徹底である。不徹底である理由はいろいろあるけれど、たとえば天皇に戦争責任があるといういい方の中に、戦後的価値の不徹底をみることができる。そこで、戦後的な価値観には立つけれど、だからなおのこと、大日本帝国憲法が戦後的な価値観によるものとは別な構築物であるという側面をよくみておかないと、たとえば「近代化がたりなかった」とかいう形の糾弾になってしまい、天皇が個人として極限状況で個々の場面にどのように行動していたのかというぎりぎりの像が、正確に見えなくなると思うのです。

 

 

 

私に言わせれば、戦前、その制約の中でもっとも近代的に行動し、戦後日本を準備したのは昭和天皇なのです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天皇の戦争責任(第一部  戦争責任)

「なぜ天皇の戦争責任について考えるのか

 

竹田 まず、この対談の発端について、簡単に述べておこうと思います。事の起こりはロンドンです。僕は、一九九八年から九九年にかけてイギリスにいましたが、橋爪さんが仕事でオーストリアに行かれて、その途中ロンドンに立ち寄って会いに来てくれました。

 

 

そのとき、この対談の話がでました。橋爪さんが言うには、加藤さんがある場所で「天皇に戦争責任はある」と発言していたのを聞いて、ぜひ話をしてみたいと思った。自分としては「天皇に戦争責任はない」と思う。他の人ならともかく、その仕事に一目おいている加藤さんとのあいだに考え方の違いがあるならば、その違いをはっきりさせておきたい。ロンドンで橋爪さんがそんなふうに言われて、では僕が司会役を引き受けましょうということで、この対談が実現したわけです。(略)

 

 

 

橋爪 では、まず私の基本認識から述べますと、いまの日本は端的に「停滞」していると思うわけです。これをなんとか先に進めたい、と私は思っているわけですね。

なぜ停滞しているかというと、次のような理由によります。私たちは、「戦後」という社会のなかにいながら、その戦後という社会の構造が掴めないでいる。

 

 

そしてそれを乗り越えるきっかけを自分の中にみつけられないでいる。それを先にすすめるためのひとつの大事な論点になるのが「天皇」だと思います。(略)

つまり、戦前と戦後を明確に区分したうえで、戦後社会の正統性をこれまで以上に主張し、しかも天皇の戦争責任は問わないという議論が可能だと思った。それをこれから証明しようと思うんですが、この直感がまず核になっているわけです。

 

 

 

天皇の戦争責任」というような問い方を終わらせることが、戦後を内側から乗り越えるためには必要な作業であるように思うのです。そしてそれが、戦後という時代にピリオドを打ち、日本の市民社会をさらに成熟させ、まともなものにするための、重要な第一歩となると思うのです。(略)

 

 

加藤 (略)僕は、新しく今回考えてみて、天皇の責任として最後に残る確信の問題は、戦争の死者、とくに兵士に対して、昭和天皇がいわば統帥権者たる一個人として道義的な責任を放棄したことなんじゃないか、と考えるようになった。僕個人としてというより、日本の戦後社会の問題として、そういうことがあるという考えにいたった。

 

 

僕はいま、いわゆるこれまでどおりの天皇の戦争責任なるものを、われわれが糾弾するというやり方は、もうやめたい、やめるべきだとすら思っています。これでは国民の責任がはっきりしないままだから。それと同時に、ほんとうのことを言うと、この問題の核心は、別の所にある。昭和天皇の戦争の死者に対する道義的責任、これをどう考えるか、という問題を僕たちが自分で解くこと、これが大事だというのが、僕が「天皇の責任はある」と言う時、いま頭にあるいちばん大きな内容だといえます。(略)

 

 

橋爪 いま、いろいろな話がでました。

最初に賛成する点を言っておけば、日本国民の責任というかたちで、天皇の戦争責任を考えていくことが重要であるいという点です。(略)そこで、その正統的な後継団体である日本国の、その実質的な主権者である日本国民がその責任を継承し、そのありかたを追及していくというのは、はずすことのできない基本的な考え方の筋道だと思う。だから日本国民は、戦争を行った当事者として、この問題を考えていくべきなんですね。(略)

 

 

私が「戦争責任がない」という場合は、これから証明すべき、論証すべき事柄として言いたい。日本国民が主体的に、正確に大日本帝国の行動の論理と内部構造を検討し、その結果、「天皇の戦争責任」というかたちに結論をもっていくのは正しくないと判断したというふうに議論を進めたい。そこで私は、いわゆる天皇擁護論や、天皇を政治的に利用したアメリカの占領政策から、「天皇に戦争責任はない」と言うのではなく、それとはまったく別の視点から、これを言いたいと思っているわけです。これが一点です。

 

 

つぎに、では「天皇に戦争責任がある」という立場に、いったいどれだけのリアリティがあると言えるのか、について。、いろいろな言い方がありますが、ひとつは「建前上、戦前は天皇が主権者となっていたのだから、戦争を起こしたり負けたりしたことについては、まずまっさきに主権者の天皇に責任があるのではないか」という言い方。

 

 

もうひとつは左翼の言い方で、「自分は天皇制に反対している。戦前であろうと戦後であろうと天皇は存在しないほうがいいわけだがら、戦争責任があるというかたちで天皇を糾弾し否定したい」という言い方。このどちらも、私がいま言った、天皇の戦争責任があるのかないのかをきちんと論証していくという態度からは遠いと思う。むろん、私は賛成できなかった。戦争責任を擁護する側にせよ、追及する側にせよ、私が納得できる考え方の筋道で議論を進めているものはなかったんですね。(略)

 

 

 

加藤 僕からの竹田さんの問いへの答えは、こうなると思う。まずなぜ戦争責任というものが問題になるのか、ということで、問題はふたつにわかれる。ひとつは竹田さんの言う、「戦争を始めた責任」が国際的なルール上、問題になるケース。もうひとつは、戦後の日本が近隣諸国と新たな関係をつくっていくに際して、共通了解の基盤をつくるうえで必要になる、いわばそのための侵略責任とそれへの謝罪の意思の明確化という戦争責任の問題のケースです。(略)

 

 

だから、問題は第二のケースにあると考えた方がよい。「まずはじめに、戦争責任というものをどう考えればいいか」。それにはむろん、東京裁判の時点での、大日本帝国の開戦責任、「平和に対する罪」など国際法上の問題というものあるけれど、いまの時点での対外的な責任の中心は、そこにはなくて、むしろ近隣諸国との関係をつくるうえでいま障害になっている、侵略責任のあいまいなままでの放置、ということにある。つまり、この戦争問題の厚生の出発点は、この戦争が総体として、近隣諸国への侵略の責任を問われなくてはならない戦争だと一方の日本人は感じ、いや、そうではない、ともう一方の戦後日本人が思っている、という評価に関するコンセンサスの不在にあると思う。(略)

 

 

橋爪 そうした認識や感覚はわかるし、私も共有しています。(略)

ただ、これをうまく言うのはとてもむずかしいことだと思います。

そこで、ちょっと別な言い方で言ってみますが、たとえば天皇の戦争責任を言い立てているものの代表として、井上清昭和天皇の戦争責任」、家永三郎「戦争責任」、吉田裕「昭和天皇終戦史」をあげてみましょう。

 

 

 

ここで述べられていることを、簡単にかみくだいて言うと、戦争をめぐる考え方の筋道に関してはだいたい同じなんです。(略)

そして、その責任を追及している著者、およびその背後にいる日本国民は、そのぶんだけ無責任というか、無当責になっている。

 

 

いわば戦後日本という安全な場所から、自分たちとは無関係な人々のこととして、戦争をした(あるいは、せざるをえなかった)大日本帝国を糾弾している。私に言わせれば、こんなことはなんの意味もない。

もし「天皇に戦争責任がある」と言うのであれば、一九四五年八月十五日、それ以前に言うべきです。それだったら緊張感もあり、現実的な態度であり、なにごとかであったと思う。

 

 

 

戦後の日本で何かを言うんだったら、戦後の日本国という国家がどのように動いているか、という現場の感覚をもって言うべきです。その感覚を抜きにして、終わってしまった戦争の責任を言うことに、私はとても不健全なものを感じる。なぜかというと、日本国と大日本帝国とのあいだには連続と不連続があるけれど、その不連続性だけを確認するために言っているわけで、連続しているという現実を見ないことになるからです。

 

 

そのことによって、戦後の日本国民が担うべき責任はなにかを考えていく、というプラスの方向を切り捨ててしまった。それは、現在の問題、たとえば自衛隊原発のような問題を考えるときの無責任な態度に直接つながっていると感じます。」

 

 

 

 

 

 

天皇の戦争責任 (まえがき―― 思想の敗北に抗する力)

竹田青嗣

 

この対談は、加藤典洋橋爪大三郎による、「天皇に戦争責任はあるのか」についての対決バトル討論である。わたしはこの対決討論の行司役を買ってでた。彼らの討論なら、これまで延々くりひろげられてきた「天皇」と「戦争責任」に関する議論とはまったく違った、新しい本質的な議論になるはずだと考えたからである。

 

 

私はこのバトル討論を、とくに若い人々に読んでほしい。「社会」、「国際問題」、「戦争」、「天皇制」といった問題がいろいろ気になるが、どうもすでにある議論がすんなりと胸に腹におさまらない、といった人々に読んでもらいたい。これは、なぜこれまでの「社会」、「戦争」、「天皇」の議論がどこか大上段で、自分の日常の存在の感度にまで繋がらないか、どう考えればそこに辿っていくべき道をみいだせるかを、かならず示唆してくれるような対談なのである。(略)

 

 

 

結局は、大山鳴動してネズミ一匹で、各論者のいわば政治的帰属を確定するだけの問いとなるからだ。つまりそれは、与えられた問題を追い詰めて、はじめに存在した問題のかたちを変容させながら、これをより本質的な問題へ鍛えていく、ということがむしろ不可能になるような「レトリカル・クエスチョン」であることが多いのである。

 

 

 

天皇制」と「戦争責任」の問題は、つまり、これまでずっとそのような二項対立的、二者択一的問題として機能してきた。ざっくばらんんい言ってそれは、論者にとっては、彼が「革新派」に属するか「保守派」に属するかによって、その答えがほぼ自動的に決定されるような問題として存在してきた。

 

 

また読者にとっては(とくに現在の若者にとって)、君は「戦争」という悪を犯した「天皇」や「日本」を擁護するのか、それともそれらに反対の立場をとるのか、といった、じつはかなりナイーヴな倫理決定を二者択一的に迫るような問題として機能してきた。

 

 

 

ようするに、はじめに「左より」か「右より」かという規定の態度や立場があり、さまざまな議論はその立場をただ支えるだけの「信念補強型」、「直観補強型」の議論でありつづけてきたし、現在もそうなのである。(略)

 

 

 

この核とはつまり、「戦争」や戦前の天皇制をもはや歴史記述としてしか知らない現代の若者が、自国の過去の歴史、日本という国家の国際的な位置などを、どのように自分の生の場所につなげるかたちで構想できるか、という問題なのである。(略)

 

 

私としては、同時代の事件や問題が、例の「二項対立」的議論の色彩を強めたらさっさとそこから撤退するのが賢明であると若い人たちに言いたい。この古くからの議論には、もはや「君はどちらの立場に属しますか」という態度決定を促す機能しか残っていない。そして「どちらか」に属したら、思想は敗北する。そこにもはや問題の核心は存在しえず、ただ心情的”倫理性”だけが生き延びているのである。

 

 

さて、「天皇」と「戦争責任」をテーマとする加藤典洋橋爪大三郎のこの対決討論は、一見、「天皇に戦争責任はあるか、否か」という二項対立的問いを形成している。しかし、すぐにわかるのは、ここではどちらの「立場」に立つかなどということが問題の中心をなしていない。

 

 

二人はいわば作業仮説的に対極の立場に立ち、この問題を、いまわれわれが「白紙」の状態から考え直すとして、どのような問題設定をおこなうべきか、という思考実験を競っているのである。(略)

 

 

 

われわれもまた、戦後思想が長く論じてきた一切の問題について、新しい問題設定を”作り出さ”なくてはならない。加藤、橋爪のここでの「天皇」と「戦争責任」の問いはその端緒に立っている。」

 

 

 

天皇の戦争責任

加藤典洋 橋爪大三郎 竹田青嗣 著 「天皇の戦争責任」を読みました。

とても、厚い本です。内田樹氏の「街場の天皇論」を探している時に、たまたま見つけて、橋爪大三郎さんの本だったので、読んでみたいと思いました。

 

また、加藤典洋氏のお名前は、あの原発事故当時、ネット上で何度か見かけて、いいことを言うなぁ、と思っていました。でも、著書は一冊も読んだことがありません。

 

天皇の戦争責任」などというテーマは、私のようなものが取り組めるような生易しいものではないと、最初からわかっていたので、多分途中で投げ出すに決まっている、と思いましたが、それでも、ほんの少しでも、興味を惹かれる部分があれば、いいじゃないか… とダメもとで読み始めました。

 

確かにとても難しく、三分の二位は、飛ばしながら読んだのですが、「昭和天皇の研究」「街場の天皇論」で、多少「天皇制への関心」が芽生えていたせいか、興味深く読めた所も多くあって、難しくわからないなりに、とても良い本だなぁ、と思いました。

 

というのも、この加藤氏、橋爪氏、竹田氏の議論が、良いのです。著名人の議論と言えば、あの田原氏の朝まで生テレビなどを思い出すのですが、私は最近はあの番組はもう見たくありません。頭がついて行けない、ということなのでしょうけど、心が苦しくなってしまい、嫌な気持ちだけが残ります。

 

でも、この三人の議論は、きちんと主張し、違いは違いとして曖昧にしようとしないのに、そのベースにとても真摯な誠実なものがあって、心打たれました。

ほんの一部だけでも、メモしておきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

少し観想

〇「日本的情況を見くびらない」ということ、ってどういうことなのかな、とずっと頭の片隅にあります。

 

そこで、少し思ったことを書いてみたいと思います。

私が以前、考えたことがある「日本的情況」は、「お見合い結婚」でした。

うちの親は「お見合い」で結婚しました。

特に難しい家柄ではなかったので、嫌々とか、渋々しょうがなく、

などということもなく、どちらも前向きに喜んで結婚したようです。

 

私が中学の時、母に対して、「なぜお見合いなんてことで、一生を共にする相手を決められるのか」と「お見合い結婚」を批判したことがあります。

その時、母がなんて言ったのか、正確には覚えていないのですが、「お見合い」という方法でしか結婚できない人がいる、というようなことを言われたような気がします。

 

私はそれに対して、反抗的に、「結婚は結婚したい(ずっと一緒にいたい)という気持ちが生じるからするもので、結婚という制度に従うためにするものじゃないと思う」というようなことを言いました。そして、実際に心の中では、「結婚したいと思う人に出会わなかったら、結婚などしない」と思っていました。

 

 

でも、その後、時が経ち、私の友人は、何故か二人とも、お見合いで結婚しました。

その頃から、少し考えが変わったような気もします。

そして、今、私は、この日本という国では、案外、「お見合い」というやり方は、

私たちの気質に合っているのかもしれない、と思うようになりました。

 

 

私自身、あまり社交的ではありません。人を信じることも頼りにすることも苦手で、

人懐っこさというようなものがありません。そんな私が結婚できたのは、多分、夫との出会いが、中学の時だったからだと思います。たまたまその時に出会い、縁があって、結婚することになりました。

 

でも、その時に出会いがなく、20代、30代、40代となってしまっていたら…

その後の生活を思い出すと、結婚しなかったかも知れない、と思います。

中学の頃、「結婚はずっと一緒に居たいと願うからするもの」と私は思ったのですが、それは、確かにそういう部分はあると思うのですが、でも、一緒に暮らすことで、一緒に居たいと願うようになる、ということもある、と今は思います。

 

 

一人で生きるよりも、二人で生きることで、苦労や煩わしさのようなものは増えるように見えて、ちょうど登山のように、その苦労が心の筋力を鍛え、達成感や成長に繋がることもあるのでは…。

 

内気で誰とでも簡単に打ち解けられない気質の人でも、(実際、私はそうなのですが…)、一緒に暮らすことで、なんとか親しくなり、家族になれる…。私はそうでした。そうならば、その可能性を拡げる「お見合い」というのは、日本人に合ってるシステムだったのかもしれない、と思います。

 

 

しかも、昔のお見合いは、「おせっかいなおばさん」が、どちらの家族や人柄もよく知っていて、あの娘さんとあの息子さんなら、きっといい夫婦になる、と見立てて、お世話してくれる…ということらしく、安心できたのでは、と思います。

 

日本的な社会がどんどん変わり、大事なシステムを失ってしまったんだなぁ、と感じます。

 

日本的情況を私は見くびっていた、そういうことなのかな、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

街場の天皇論 (「日本的情況を見くびらない」ということ ―― あとがきにかえて)

〇 最後に「あとがきにかえて」のメモをして「街場の天皇論」のメモを終わります。

 

「1969年、私が予備校生だった頃、東大全共闘三島由紀夫を招いて討論を催したことがあった。(略)

三島由紀夫は「天皇」という一言があれば、自分は東大全共闘と共闘できただろうというその後長く入口に膾炙することになった言葉を吐いた。

 

 

 

だが、その言葉の含意するところが理解できるようになるということが日本における「政治的成熟」の一つの指標なのだということは理解できた。

記憶があいまいだったので、古書を漁って、討論の記録を手に入れた。改めて読み返してみて、私が胸を衝かれたのは、三島の次の発言である。いささか長いけど、引用してみる。

 

 

「これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂全学連の諸君が立てこもった時に、天皇という言葉を一言彼らが言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。(笑)これは私はふざけて言っているんじゃない。常々言っていることである。なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在いわれている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。

 

 

これは非常に空疎な政治概念だが、その中には一つの共通要素がある。その共通要素は何かというと、国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている。この夢見ていることは一度もかなえられなかったから、戦前のクーデターはみな失敗した。

 

 

しかしながら、これには天皇という二字がついていた。それがいまはつかないのは、つけてもしょうがないと諸君は思っているだけで、これがついて、日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか。

 

 

これは、本当に諸君が心の底から考えれば、くっついてこなければならぬと私は信じている。それがくっついた時には、成功しないものも成功するかもしれないのだ。」(三島由紀夫・東大全額共闘会議駒場共闘焚祭委員会、「討論 三島由紀夫 VS. 東大全共闘」、新潮社、1969年、64-65頁)

 

 

この発言から私たちが知れるのは、三島が日本の政治過程において本質的なことは、綱領の整合性でも、政治組織の堅牢さでもなく、民衆の政治的エネルギーを爆発的に解発する「レバレッジ」を見出すことだと考えていたことである。そして、その「レバレッジ」は三島たちの世代においては、しばしば「天皇」という「二字」に集約されたのである。

 

 

あえて「世代」を強調したのは、三島と同世代の思想家たちはほとんど同じことを別の文脈で(しばしば「天皇」という語を伏せたまま)語っていたからである。」

 

 

〇「天皇」を持ち出すことで民衆のエネルギーを爆発的に解発できる、と考えたのは、戦前の陸軍のやり方に通じるものを感じます。以前、中学生の男子(今の私の夫)が、御巡幸で天皇を見た時に、涙が止まらなくなった、というエピソードを書きましたが、言葉にならない天皇への想いということでは、私の中にも、あるのかも知れません。

 

つまり、天皇を持ち出すことで、「なんだかわからないけれど」「訳が分からないうちに」爆発的なエネルギーで、どこかに持っていかれる感じは、今もあるような気がします。だからこそ、巧妙に「天皇」を持ち出し、「日の丸・君が代」を教育の中に根付かせようとするやり方に、漠然とした不安を感じてしまいます。

 

「「民衆の爆発的なエネルギーと触れ合うことのない政治は無力だ」という実感は、三島由紀夫吉本隆明も、あるいは江藤淳大江健三郎鶴見俊輔も持っていたと思う。

 

 

それも当然だと思う。この世代の人々は、おのれ自身の少年時代において、その「爆発的なエネルギー」のうちに巻き込まれて死ぬことを特に理不尽なことだと思っていなかったからである。「国家意思と直結した仕方で死ぬ私」という先取りされた死の実感をこの世代の人たちはその少年時代に原体験として有していた。

 

 

人によってはそれがエロティックな法悦をもたらしたかも知れないし、人によっては見を引き裂かれるような痛みをもたらしたかも知れないが、いずれにせよ、政治的幻想がおのれの固有の身体においてありありと受肉した経験というものを彼らは持っていた。そして、リアリティの絶対値においてそれに匹敵する経験を、彼らは敗戦後の日本ではついに見出すことが出来なかったのである。

 

 

 

三島由紀夫が東大全共闘の思想と運動のうちに、「勤皇の志士」と同質の政治的資質を見出したのは炯眼という他はない。というのは、戦後日本の政治運動のうち、ある程度の民衆的高揚を達成したものは、いずれも「反米愛国」の尊王ナショナリズムから大きなエネルギーを補給されていたからである。

 

 

60年安保闘争は表層的には日米安保条約という一条の適否をめぐるもののように見えるけれど、本質は「反米愛国」のナショナリズムの運動である。そうでなければ、あれほど多くの市民が仕事を休んでまで国会デモに駆け付けたことの意味は理解できない。

 

 

政治はもともと「常民」にとっては無縁のものである。外交条約の適否より「明日の米びつ」を心配するのが「常民」の真骨頂であり、そう言ってよければ、彼らの批評性の核心である。この批評性の前に一歩も退かない政治思想しか本当に社会を変えることはできない。

 

 

 

60年安保のときには少なからず非政治的な市民が政治化した。それを岸内閣の政権運営の粗雑さだけで説明することはできない。市民たちが立ち上がったのは、学生たちの「反米愛国」のうねりの彼方に「戦わずに終わった本土決戦」の残影を幻視したからである。

なぜ私がそんな危ういことを断言できるかと言えば、1968年の1月の佐世保での空母エンタープライズ号寄港阻止闘争のニュース映像をテレビで見た時に、17歳の私もそれに似たものを感じたことがあるからである。

 

 

テレビカメラが映し出していたのは、ヘルメットにゲバ棒で「武装」し、自治会旗を掲げた数千の三派系全学連学生たちの姿だった。私はその映像に足が震えるほどの興奮を覚えた。佐世保の現場と私のいる東京の家のリビングルームが「地続き」だということが私には直感された。

 

 

それはヘルメットが「兜」で、そこに書かれた党派名が「前立て」で、ゲバ棒が「槍」で、自治会旗が「旗指物」だったからである。(略)

 

 

カール・マルクスは「ルイ・ボナパルトブリュメール一八日」にこう書いている。

「人間は自分自身の歴史を作るが、自分が選んだ状況下で思うように歴史をつくるのではなく、手近にある、与えられ、過去から伝えられた状況下でそうするのである。死滅したすべての世代の伝統が、生きている者たちの脳髄に夢魔のようにのしかかっているのだ。

 

 

そして、生きている者たちは、ちょうど自分自身と事態を変革し、いまだになかったものを創り出すことに専念しているように見える時に、まさにそのような革命的な危機の時期に、不安げに過去の亡霊たちを呼び出して助けを求め、その名前や闘いのスローガンや衣装を借用し、そうした由緒ある扮装、そうした借物の言葉で新しい世界史の場面を演じるのである。」(カール・マルクス、「ルイ・ボナパルトブリュメール一八日」、横張誠訳、筑摩書房、2005年、4ページ)(略)

 

 

 

そのような政治的意匠の働きを勘定に入れれば、三島由紀夫佐世保闘争の一年後に、全共闘の学生たちに向かって、「天皇という言葉を一言彼らが言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う」と言ったのは決して突飛なことではなかったのである。

 

 

東大全共闘の学生の一人はこのとき、三島が「英霊の聲」などの作品を通じて天皇を美的表象として完結させようとしながら、その一方では、自衛隊体験入隊したり、楯の会を結成したりして、世俗的な天皇主義者的なふるまいをすることの首尾一貫性のなさを難じた。あなたは美的な天皇主義者なのか、それとも世俗的な天皇主義者なのかどちらなのかという鋭い指摘に三島は笑顔でこう応じた。

 

 

「いまのは、非常に勤皇の士の御言葉を伺って、私は非常にうれしい。(笑)あなたはあくまで天皇の美しいイメージをとっておきたいがために、私を書斎にとじこめておきたい。(笑)あなたの気持ちの奥底にあるものはそれだ。この尽忠愛国の志に尽きると思う。(笑)」(三島、全掲書、63頁)

 

 

 

三島のこの発言を学生たちはジョークだと受け取り、会場は笑いに包まれた。すると、一人の学生が苛立って「まじめに話せよ、まじめに!」と三島に食ってかかった。三島はやや色をなして、こう一喝した。

「君、まじめというのはこの中に入っているんだよ!言葉というのはそういうものだ。この中にまじめが入っているんだ。わかるか!」(同書、63頁)

 

 

 

三島と全共闘との「対話」は事実上ここで終わる。あとの天皇をめぐる思弁的な議論はつまびらかにするに足りない。それでも集会の最後に三島が語った言葉はやはり傾聴に値する。

「いま天皇ということを口にしただけで共闘するといった。これは言霊というものの働きだと思うのですね。それでなければ、天皇ということを口にすることも穢らわしかったような人が、この二時間半のシンポジウムの間に、あれだけ大勢の人間がたとえ悪口にしろ、天皇なんて口から言ったはずがない。

 

 

 

言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言葉がどっかにどんな風に残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。」(同署、120頁)

 

 

 

三島が信じようとしたのは学生たちの「憂国の熱情」である。古めかしい言葉だけれど、三島はたしかにそれを学生たちのうちに感知したのである。そして、日本社会においては、それしか地殻変動的な政治的エネルギーを備給する情念は存在しないのである。」

 

 

〇 「言霊」「憂国の熱情」「情念」という言葉しか「信じない」という表現に、やっぱり危うさを感じてしまいます。これを「凡人」が聞くと、熱情や情念をどう表現するか…というところに焦点が移ってしまい、大声で「情熱的に」訴えたり、「徹底的に」「とことんまで」…という芝居がかった演技の世界に入っていくのではないかと。

山本七平が批判したあの帝国陸軍の将校のように。

 

私などは、何故この「優秀な人々が」もっと「建設的に議論を重ね」「よりよい社会を積み上げて行こう」としないのかが、疑問ですし、悲しいのですが。

 

 

アメリカの属国として、大義なきベトナム戦争の後方支援をつとめ、ベトナム特需で金儲けし、平和と繁栄のうちに惰眠をむさぼっている日本人であることを学生たちは深く恥じていた。その恥辱と自己嫌悪が学生たちの学園破壊運動の感情的な動機だった。私はこの討論のちょうど一年後に同じキャンパスの空気を吸った。だから、全共闘の学生たちの屈託がどういうものか実感として知っている。

 

 

 

彼らが「自己否定」というスローガンを掲げたのは、国に大義がないとき、その国においてキャリアパスを約束されている人間にも同じく義がないと感じたからである。「邦に道あるに、貧しくして且つ賤しきは恥なり。邦に道なきに、冨て且つ貴きは恥なり」(「論語」泰伯篇)という孔子の言葉を東大全共闘の学生たちはそのままほとんど愚直に受け止めたのである。

 

 

 

60年代末の学生運動がそれなりの政治的エネルギーを喚起できたのは「常民」たちを眠りから目覚めさせずにはおかない「尊王攘夷」の政治幻想に駆動されていたからである。それがついに学園から外に出て、市民社会に浸透することが出来なかったのは、学生たちの自己否定論につきまとう「君子固より窮す(君子は小人に先んじて受難する)という旧姓高校的なエリート意識の臭みのゆえである。絵解きしてみると、素材はずいぶん古めかしいのである。

 

 

 

養老孟司全共闘の運動がある種の「先祖返り」であることをその時点で察知した例外的な人である。養老先生は御殿下グランウンドに林立する全共闘戦闘部隊の鉄パイプを見たときに戦争末期の竹槍教練を思い出したと私に話してくれたことがある。それを聞いたときに、吉本隆明が転向について言ったのと同じことが全共闘運動についても言えるのかも知れないと私は思った。

 

 

学生たちがそれと知らずに、「過去の亡霊たち」に取り憑かれたのは、まさに「侮りつくし、離脱したとしんじた日本的な小情況から、ふたたび足をすくわれたということに外ならなかったのではないか。」

吉本は戦前の共産主義者たちの組織的な転向についてこう書いた。

 

 

 

「この種の上昇型のインテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼の前につきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として、一度も対決されなかったことに気づくのである。」(「転向論」、「吉本隆明全著作集13」1969年、勁草書房、17頁)」」

 

〇 ここに並んでいる言葉のほとんどを、私は理解出来ません。全共闘的な活動とは別の所で生きていたから…、理解する能力がないということなのでしょう。

それよりも、この難しい話を読みながら、私が思うのは、あの「日本はなぜ敗れるのか」の中で、小松氏や山本氏が書いていた

 

そして将校すなわち高等教育を受けた者ほどメッキがひどく、従ってそれがはげれば惨憺たる状態であった。」と言う文章や

「理由は、一言で言えば「文化の確立」なく、「思想的徹底」のないためであったが、もっと恐ろしいことは、人々がそれを意識しないだけでなく、学歴と社会的階層だけで、いわれなきプライドをもっていたことであった。」

という文章です。

 

 

現在の社会で、首相がつく嘘を平気で許し、見逃すのを支えている人々が、「高等教育を受けた者」=「エリート」であることを思う時、どうしていつまでも、私たちの社会はこんなにも酷いままなのか、とがっかりしてしまいます。

 

「この言葉はそのまま全共闘の学生たちについても適用できるだろうと私は思う。彼らは戦前の共産主義者たちの「転向」を別の形で、皮肉なことに一場の成功体験として経験したのである。もしそうなら、その運動と思想が「日本的情況」内部的な事件として「思考の対象として対決される」ことが決してないのも当然である。

 

 

話を戻す。三島由紀夫が東大全共闘に向けて「私たちは同じ現実のうちにいる。同じ幻想のうちにいる。それを解き明かすキーワードは「天皇」だ」と告げた時には、18歳の私はその真意をはかりかねた。けれども、この言葉のうちには真率なものがあると感じた。

 

 

この言葉の意味がわかるようになりたいと思った。そして、「侮りつくし、離脱したと信じた日本的な小状況から、ふたたび足をすくわれ」る目にだけは遭いたくないと強く思った。」

 

〇 これは、具体的にどういうことなのか、いまいちわからないのですが…。先日、ニュース番組を見ていたら、保坂正康氏が、今の政府のコロナ対応は、太平洋戦争の時の日本軍のやり方に似ている、というようなことを述べておられました。

敵を知ろうとしない。状況を客観的に見ようとせず、主観的希望的観測を客観的事実だと思い込む。思い付きで行き当たりばったりの対応をする、と。

 

つまり、これほど時間が経ち、様々なことを経ても、私たちは、少しも「進化」していかない。何故なのか…。どうすれば、「進化」「成長」するようになれるのか…。

 

「予備校生だった私はそのまま立ち上がって、自宅近くの「神武館」という空手道場に入門した。数か月後に入学した大学でも空手部に入った。天皇制のエートスを理解するためには武道修業が捷径ではないかと直感したあたりは子供ながら筋は悪くない。けれども、大学一年の冬に三島由紀夫は割腹自殺し、私は暴力事件を起こして空手部を退部になり、武道修業を通じて天皇制的「情況」に迫るという少年の計画は水泡に帰した。

 

 

それから50年の歳月を閲した。その間、私は他のことはともかく、「日本的情況を見くびらない」ということについては一度も気を緩めたことがない。合気道能楽を稽古し、聖地を巡歴し、禊行を修し、道場を建て、祭礼に参加した。

 

 

それが家族制度であれ、地縁集団であれ、宗教儀礼であれ、私は一度たりともそれを侮ったことも、そこから離脱し得たと思ったこともない。それは私が「日本的情況にふたたび足をすくわれること」を極度に恐れていたからである。近代日本の知識人を二度にわたって陥れた「ピットフォール」にもうはまり込みたくなかった。(略)

 

 

これらを一読して私を「還暦を過ぎたあたりで急に復古的になる、よくあるタイプの伝統主義者」だと見なして、本を投げ捨てる人もいるかもしれない。たぶん、いると思う。こういう本を編めば、そういうリスクを伴うことはよく承知している。

 

 

 

けれども、長く生きてきてわかったのは、天皇制は(三島が言うように)体制転覆の政治的エネルギーを蔵していると同時に、(戦後日本社会が実証してみせたように)社会的安定性を担保してもいるということである。

 

 

 

天皇制は革命的エネルギーの備給源でありかつステイタス・クオの盤石の保証人であるという両義的な政治装置だ。私たち日本人はこの複雑な政治装置の操作を委ねられている。この「難問」を私たちは国民的な課題として背負わされている。その課題を日本国民はまっすぐに受け入れるべきだというのが私の考えである。

 

 

 

「はじめに」にも記した通り、ある種の難問を抱え込むことで人間は知性的・感性的・霊性的に成熟する。天皇制は日本人にとってそのようなタイプの難問である。

ここに採録したのは、その難問をめぐる思索の一端である。それが有用な汎通的知見を含んでいるかどうか、私には自信がない。せめて1950年生まれの一人の日本人が「天皇制的情況」とどう向き合ってきたのか、その民族誌的資料の一つとして読んでいただければ私としては十分である。(略)

 

 

         2017年7月        内田樹      」

 

 

〇私としては、「改憲草案の「新しさ」を読み解く ――国民国家解体のシナリオ」が、一番強く心に残りました。

これで、「街場の天皇論」のメモを終わります。