読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下 (付録 判断)

〇 もう少し判断について。
 
「判断、とりわけ趣味判断は、常に他者を考慮し…他者が下すと考えられる判断を考慮に入れる。このことが必要であるのは、私が人間であり、人々の共同体の外では生きることが出来ないからである。」
 
 
「このことをなるほどと思わせるもっとも明瞭な観点は、美的なものの真の対立項は醜悪なものではなく、「嫌悪感を催させるもの」であるという、カントのまったく正しい観察にある。」
 
 
「ところが思考することは普遍化することを意味しており、したがって判断力は特殊と普遍を不思議な仕方でつなぐ能力である。」
 
「もしカントが観察者として得た知識に基づいて活動していたなら、彼は心の罪を感じたであろう。しかしまた、この「道徳的義務」ゆえに観察者としての自分の洞察をわすれてしまったなら、カントは、公務に紛れ忙殺されている多くの善良な人々がそうなりがちな者_愚かな理想主義者となっていたであろう。」
 
 
「しかし、カントは、「芸術には…想像力、知性、精神および趣味が必要である」と明言し、更に脚注の中で、「最初の三つの能力は第四の能力によって合一される」と付け加えている。すなわち、この第四の能力とは趣味であり、したがって判断力である。」
 
「換言すれば、精神は天才を、しかも天才のみを鼓舞するものであり、「いかなる学問もこれを教えることはできず、いかなる勤勉によっても学ぶことのできないものである。」
 
「この心的状態を「普遍的にコミュニケーション可能」にするのが、天才に固有な仕事である。」
 
 
 
「目的のないように思える唯一の対象は、一方では美的対象であり、他方では人々である。それらについては、「いかなる目的のために」と問うことは出来ない。なぜならそれらはどんなことにも役立たないからである。
 
しかし…無目的な芸術的対象は、一見無目的に見える自然の多様性と同様に、人々に快を与え、世界の中で安らいだ心地にさせる、という「目的」を持っている。
 
このことはけっして証明できない。しかし、合目的性は、反省的判断力において我々の反省を統制する理念なのである。
 
 
次に、カントの第二の、私の考えでははるかに価値ある解決は、範例的妥当性である。(略)この判例は、まさにその特殊性において、ほかの仕方では明らかにしえないような普遍性をあらわにする特殊なものであり、またあり続ける。たとえば、勇気はアキレスに似ている、等々。
 
 
我々は以前に、事件に巻き込まれていないが故に、事件全体の意味を見ることのできない行為者のかたよりについて語った。
 
…同じことは、美しいものや行為そのものについてはあてはまらない。カントの述語によれは、美しいものは目的自体である。なぜなら美しいものすべての可能な意味は、美しいもの自身のうちに含まれ、ほかのものとは無関係だからである。
いわば、ほかの美しいものへの連鎖と係わらないからである。
 
 
カント自身のうちには、次のような矛盾がある。すなわち、無限の進歩は人類の法則である。ところが同時に、人間の尊厳は、人間というものを一人ひとりの単独の個人が、…その特殊性のままでいかなる比較もなしに、時間から独立してそのものとして人類一般を反映するものとして見られることを要求する。
 
換言すれば、まさに進歩の理念そのものが_もしもそれが環境のたんなる変化や世界の改善以上のものであるとしたなら_カントの考える人間の尊厳という概念に矛盾するのである。」
 
 
〇「精神は天才のみを鼓舞する。いかなる学問も教えることは出来す、いかなる勤勉によっても学ぶことのできないもの」という言葉は、カントのものらしいけれど、実際には、確かにそうだろうな、という気がします。
 
どんなに頑張って読んでも、私には哲学者たちの思想を理解することが出来ません。
でも、じゃあ、私の「人間的尊厳」と哲学者の尊厳とでは、哲学者の尊厳が重いのか、となるとそうはならない。
 
大昔からずっと存在したであろう、どこにでもいるタイプの凡人たちは、この先もおそらくそれほど進歩せず、凡人として存在していきます。
 
でも、人類は無限の進歩をするという。確かに矛盾があると思います。
 
 
「精神の生活」はこれで、終わりにします。