「またマルクス主義自身も、戦争中の学生にとって、決して無縁の存在ではなかった。(略)
そういう人間が、昭和二十一年一月に、戦犯容疑者を入れる第四収容所に入れられたわけである。(略)
給与も非常に改善され、以前のような飢餓感はうすらいでいた。全員が殆ど作業はなかったといってよい。柵外に出して逃亡されることを恐れたからであろう。(略)小松氏は外部から見たここの情景を次のように的確に記している。
『戦犯容疑者、戦犯者ストッケード 我々のいるストッケードの隣は、戦犯容疑者、戦犯者のいるストッケードだ。(略)
それでも時々脱走者があるという。無理もない。山にはまだ日本兵が数千いるというのだから。』
「とはいえ、ここは実に奇妙な「社会学的実験」の場であり、われわれは一種のモルモットだったわけである。
一体、われわれが、最低とはいえ衣食住を保証され、労働から解放され、一切の組織からも義務からも解放され、だれからも命令されず、一つの集団を構成し、自ら秩序をつくって自治をやれ、といわれたら、どんな秩序をつくりあげるかの「実験」の場になっていたわけである_別にだれも、それを意図したわけではないが。
一体それは、どんな秩序だったろう。結論を簡単にいえば、小松氏が記しているのと同じ秩序であり、要約すれば、一握りの暴力団に完全に支配され、全員がリンチを恐怖して、黙々とその指示に従うことによって成り立っている秩序であった。
そして、そういう状態になったのは、教育程度の差ではなかったし、また重労働のためでも、飢えのためでもなかった。」