「<歴史と生物学> (略)
とはいえ、個体や家族のレベルでの違いを探すのは誤りだ。1対1、いや10対10でも、私たちはきまりが悪いほどチンパンジーに似ている。重大な違いが見えてくるのは、150という個体数を超えた時で、1000~2000という個体数に達すると、その差には胆をつぶす。
「認知革命以降の生物学と歴史の関係をまとめると、以下のようになる。
a 生物学的特性は、ホモ・サピエンスの行動と能力の基本的限界を定める。歴史はすべてこのように定められた生物学的特性の領域(アリーナ)の境界内で発生する。
b とはいえ、このアリーナは途方もなく広いので、サピエンスは驚嘆するほど多様なゲームをすることができる。サピエンスは虚構を発明する能力のおかげで、次第に複雑なゲームを編み出し、各世代がそれをさらに発展させ、練り上げる。
c その結果、サピエンスがどう振舞うかを理解するためには、彼らの行動の歴史的深化を記述しなくてはならない。私たちの生物学的な制約に言及するのは、サッカーのワールドカップを観戦しているラジオのスポーツキャスターが、選手たちのしていることの説明ではなく、競技場の詳しい説明を聴取者に提供するようなものだ。
それでは、石器時代の私たちの祖先は、歴史というアリーナでどのようなゲームをしたのだろう?(略)
次章では、長い歳月の帳の向こうを覗き、認知革命と農業革命を隔てる数万年間には、どのような生活が営まれていたかを考察する。」
〇「サピエンスがどのような生活を営んでいたのかについて考察する」という文章を読み、以前読んだ、「日本中世の民衆像」と同じ精神を感じました。