読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第2章 人新世)

「祖先の欲求

 

聖書も、そこに示された、人間は独特であるという信念も、農業革命の副産物だった。この革命によって、人間と動物の関係は新しい段階に入ったのだった。(略)ところが、何百年、何千年と月日が流れるうちに、家畜という新奇な生命体が優勢になった。今日、大型動物の九割以上が家畜化されている。(略)

 

 

 

だが悲しいかな、家畜化された種は、種全体としては、無比の成功を収めたものの、その代償として、個体としては空前の苦しみを味わう羽目になった。動物界はこれまで何億年にもわたって多くの種類の苦痛や苦難を経験してきたが、農業革命は完全に新しい種類の苦しみを生み出し、その苦しみは時とともに悪化の一途をたどった。(略)

 

 

 

家畜の運命をとりわけ苛酷なものにしているのは、死に方だけではなく、何よりも、その生き方だ。(略)

問題の根源は、家畜が野生の祖先から受け継いだ多くの身体的、情動的、社会的欲求が、人間の農場では余分になった点にある。農民は経済的損失を被ることなく、日常的にそうした欲求を無視する。

 

 

 

家畜を狭い檻や囲いに閉じ込め、角や尾を切り取り、母親を子から引き離し、選択的に交配して奇怪な生き物を作り出す。動物たちはひどく苦しむが、それでも生き続け、数を増やす。(略)

 

 

まさにそれと同じ進化の論理が、人間が管理する農場のブタたちの生活を形作っている。彼らの祖先のイノシシたちは、野生の世界で生き延び、繁殖するためには、広範な縄張りを歩きまわり、環境に馴染み、罠や捕食者に用心する必要があった。

 

 

さらに、仲間のイノシシと意思を疎通させ、協力し、経験豊かな長老格のメスたちが支配する複雑な集団を形成する必要もあった。進化圧を受けた結果、野生のイノシシたち(とりわけメスのイノシシ)は、非常に知能が高くて社会的な動物となり、活発な好奇心や、仲間と接触を持ったり、遊んだり、うろつき回ったり、周囲を探検したりしたいという強い欲求を特徴とするに至った。(略)

 

 

イノシシの子孫である家畜のブタは、知能と好奇心と社会的技能を受け継いだ。家畜のブタはイノシシと同じで、じつにさまざまな声や匂いの合図を使って意思を疎通させる。母ブタは自分の子ブタの独特の甲高い鳴き声を認識するし、子ブタのほうも、生後二日ですでに母ブタの呼び声を他のメスブタの声と区別する。(略)

 

 

 

今日、工場式農場のメスブタの大半は、コンピューターゲームはやらない。人間の主人によって、たいてい幅六〇センチメートル、奥行き二メートルほどの狭い妊娠ブタ用檻(クレート)に押し込められている。

 

 

 

金属の棒でできたクレートの床はコンクリートで、妊娠中のブタは向きを変える変えることも、横たわって寝ることもできない。歩くことなど問題外だ。このような境遇で三カ月半過ごした後、わずかに広いクレートに移され、そこで出産し、子ブタたちに授乳する。

 

 

自然な環境では子ブタは一〇~ニ〇週間、乳を吸うが、工場式農場では二~四週間以内に無理矢理離乳させられ、母親から引き離されて出荷され、太らされて殺される。母親はただちに再び妊娠させられ、妊娠ブタ用クレートに戻されて、次のサイクルに入る。

 

 

典型的なメスブタは、このサイクルを五~一〇回繰り返した後、自分も屠られる。近年、こうしたクレートは欧州連合アメリカの一部の州では使用が制限されているが、他の多くの国では広く使われており、何千万頭もの繁殖用のメスブタがほぼ一生をその中で過ごしている。(略)

 

 

 

客観的な視点に立てば、ブタはもう、周囲を探検したり、他のブタと接触したり、自分の子供たちと絆を結んだりしなくていいし、歩く必要さえない。だが、主観的な視点に立てば、メスブタは依然としてこれらすべてをしたいという非常に強い衝動を感じているし、その衝動が充たされなければ、ひどく苦しむ。妊娠ブタ用クレートに閉じ込められたメスブタはたいてい、激しい欲求不満と極端な絶望を交互に見せる。

 

 

 

進化心理学は次のような基本的教訓を与えてくれる。何千世代も前に作られた欲求は、現在それが生存と繁殖にもう必要でない場合にさえ、主観的に感じられ続ける。悲惨なことに、農業革命のおかげで、人間は家畜の主観的欲求を無視しながらもその生存と繁殖を確保する力を得たのだった。」

 

 

〇 豚肉を食べるたびに、この妊娠ブタ用クレートの中で、激しい欲求不満と極端な絶望を繰り返しながら死んで行った、そして今も死んでいる、多くのブタの苦しみを思い出して、辛いです。

 

「サピエンス全史」の時に紹介されていた、牛の目も思い出します。辛いです。

 

また、「何千年も前に形作られた欲求は、現在それが生存と繁殖にもう必要でない場合にさえ、主観的に感じられ続ける」という教訓は、私たち人間という動物にとっても、当てはまるのではないか、と感じます。